http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20130306-OYT1T0002...
石川県議会で、カタカナ英語を使いすぎだ、と。
『ー続いて答弁した谷本知事は「安易に外来語は使うべきではないとは思うが」としながら、「グローバル化がどんどん広がり、外国から入ってくる言葉もあり、的確に日本語で表現できないものも中にはある。どうしても使わざるを得ない場合もある」と説明した。』
と。
それはもしかしたら、日本語のボキャブラリーが消えている可能性もあるかと思う。さらに、カタカナで「ビジット」とか言われても、英語通には返って通じない時もある。ビジットと言われて、聞いた側が立ち上げるスペルはきっと ''bejit'' 。
その他、「ライト」とか、その典型かと。
外語の習得が、第1言語の喪失やそこからの鞍替えであってはならない。multi というからには、容量としては単純には2倍〜であるべき。
もとい、英語そのものがゲルマン系の言語をルーツとしつつも、その層の上に、ラテン系の言語を融合した外来語からなる複合言語。英語の3万語はフランス経由のラテン語からなる、とのこと。
そしてなぜ、日本にとっては外来語=英語なのか、というそもそもの疑問。ベースはもちろん中国語の漢字文化だが。
英語と北欧の言語は文法体系や単語の音が似ているから、親和性も高い。それらが自然と融合するのは理解できる。
ではなぜ、日本語と英語が?
確かに文化史の流れや世界経済の潮流があるのは理解できるが、言語の親和性で言ったら、韓国語のほうが親和性はもっと高い。単語も似ている。おそらく日本の言語統治が影響しているのだろうけど。
なぜ、わざわざ、はるばる海を隔てた言語を獲得し、海峡を渡れば済むだけの近い地域の言葉からは、吸収している内容が少ない結果になっているのか。
その韓国語の影響が少ないのはきっと、日本のナショナリズムや、彼等から学ぼうとしていない、彼等について知ろうとしていない、ということの結果でもあると思う。
本来であれば、日本語に韓国語という外来語がもっとあってもいいようなものだと思うのだが。