http://juken.alc.co.jp/mouthbird/
率直に言って、面白い。
ああいう英語の批判を、英語を商材にしているアルクでやっているのが、また面白い。
先日行われたセンター試験の下りは特に面白い。
笑えるけど、「なるほどねー。」と納得する部分もある。
なんていうか、英語が嫌いな人というのは英語は元より、英語の文化や背景そのものが受付けなくて、それをごり押しされるようなことはもっと嫌い、という感じなんだと思う。英語学習はその象徴ってこと。
逆に英語が好きな人たちっていうのは、自分たちの「英語の世界」の普及活動に勤しんでいるっていう構図。
なんていうか、マルチ商法の商材を売りつけられているような気分なんだと思う。
「英語、英語っていうけど、実際世界で一番多く使用されている言語は中国語だよ。だから、英語が世界公用語ってのは、間違いだろ。それを、さも英語が一番みたいな言い方をするなんておかしいだろ。」
っていう事なんだと思う。英語の広がりとか、情報社会との関連を除けば、上記の主張は正しい。
ただ僕が先生の記事で一番興味を持ったのは、関連記事の洋楽の下り。『「洋楽を聴けば英語ができるようになる」ってのはウソ』っていう話。
http://juken.alc.co.jp/mouthbird/archives/2009/06/post_59...
これは確かにその通り。
これは言い換えれば、古文学習にも当てはまる。古文の教師っていうのは、そもそも古文が好きだから、自発的に勉強していて、しかもそれが勉強っていう意識でやってないから、つい人に教える時に、勉強の仕方、ノウハウを伝えずに、「読めばわかる」って言っちゃう。
でも実際、生徒や学生が古文を100回読んでも、わからないものはわからなくて、理解は深まっていないわけ。おそらく100回読むよりも、古文文法を理解しながら読み進めた方が、よっぽど理解できるわけ。
わからないものをわからないまま読んでもわかるようにはならない。
これで学生は、『先生が「読めばわかる」って言うから読んでるのに私、僕、わからない』→自分ってバカなのかも→古文、英語苦手→古文、英語キライ→古文、英語の勉強をしなくなる…っていう負の「
ブラックスパイラル」に陥る。
違うんだ。彼ら古文好きは無意識の状態で、古文に関するいろんな情報をかき集めているから、理解できるだけに過ぎない。その違いなの。
それに対して、古文嫌いな人って言うのは、単語も調べないし、文法も知ろうとしないまま、言われたまま100回読んじゃっているんだと思う。調べたとしても最低限の量で、率先して他の単語まで調べない。でも、古文好きは調べる。この違い。
洋楽も一緒で、洋楽が気に入って、英語が好きになる人っていうのは、ここで辞書を引き始める。なぜなら「知りたいから」。
この「知りたい」っていうは勉強じゃないわけ。辞書を引くっていう作業は自発的かつ無意識であって、作業のうちに入っていないわけ。だから彼らは、「繰り返し読んでいるうちに、自然に英語が(古文が)読めるようになった。」と錯覚しているわけ。
だから英語が好きで英語教師になった人が、必ずしも英語を教える事に長けているとは限らない。そのやり方が、他人にも通用するものだという思い込み、前提で伝えていて、エラーを起こしている。
前提が間違っているんだから、結果も間違うのは当然なのに、それに気づけていないっていうのは教える側の人間にはよくある話。その原因が自分にあることを、微塵も疑っていない。教わる方がバカなのが問題だと思っている。でも実際はその逆で、教える方がバカなのがほとんど。教える方がバカ(=「相手に伝える」っていうことがどういうことなのか、細かく理解できていない)なんだから、教わる方ができるようになる事はない。
それだけ「できる」とか「理解する」のと、「教える」のは別物で、次元が全く違うってこと。
サッカーが好きで人よりも常に優秀で、そうなるとますますサッカーが楽しくなって頂点に立ったジーコよりも、サッカー選手としては今ひとつだったトルシエの方が、うまくない、強くない選手、チームが、サッカーがうまい、強い、選手、チームに勝つにはどうしたらいいのかを、考えてきたわけ。
ジーコはそこを考えるよりも、才能と量による訓練=練習、経験、そして何よりサッカーが得意だっていう自信、自負でクリアできちゃった人。好きだから、練習も嫌じゃない、そうすると人よりうまくなるから楽しくなる、楽しくなるとますます好きになる、好きなるから…っていう「
黄金スパイラル」が完成するわけ。
(この「人より○○が得意だ」っていう認識は、嫌らしいけど、この世を生き抜く重要な認識だと思う。)
「量」って言うのは「練習量」の事だけど、これもさっきの英語好きの辞書と同じで、彼らは遊びの中からスキルを身につけているから、「練習」じゃなくて「興味」なわけ。これは彼ら本人の中では、「練習量」には換算されていないの。
だから、どういう風にすればできるようになるかっていう、いわゆる「プロセス論」とかっていう「理屈」には長けてはいなかった。
もっと言うと、誰かの成功法が必ずしも、いつも常に他の誰かにも通用するわけじゃないってこと。そこは各自、工夫する必要があるってこと。
古文でも、英語でも、数学、現代文、スポーツでも何でもそうだけど、こういう成長過程の人を伸ばすプロセスっていうことに関しては、才能や、その対象となるものが好きで成功した人よりも、数多くの失敗や、うまくいかなくて悩んだ末にできるようになった人の方が、そのプロセスを細かく刻んで理解しているから、教える事に長けていたりする。
そういうことを感じた。
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