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たっつんさんの日記

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2012年
01月18日
15:53 たっつんさん

mouthbird先生の一連の記事を読んで。

  • その他
http://juken.alc.co.jp/mouthbird/

 率直に言って、面白い。
 ああいう英語の批判を、英語を商材にしているアルクでやっているのが、また面白い。

 先日行われたセンター試験の下りは特に面白い。
 笑えるけど、「なるほどねー。」と納得する部分もある。
 なんていうか、英語が嫌いな人というのは英語は元より、英語の文化や背景そのものが受付けなくて、それをごり押しされるようなことはもっと嫌い、という感じなんだと思う。英語学習はその象徴ってこと。
 逆に英語が好きな人たちっていうのは、自分たちの「英語の世界」の普及活動に勤しんでいるっていう構図。

 なんていうか、マルチ商法の商材を売りつけられているような気分なんだと思う。
 「英語、英語っていうけど、実際世界で一番多く使用されている言語は中国語だよ。だから、英語が世界公用語ってのは、間違いだろ。それを、さも英語が一番みたいな言い方をするなんておかしいだろ。」
 っていう事なんだと思う。英語の広がりとか、情報社会との関連を除けば、上記の主張は正しい。


 ただ僕が先生の記事で一番興味を持ったのは、関連記事の洋楽の下り。『「洋楽を聴けば英語ができるようになる」ってのはウソ』っていう話。
http://juken.alc.co.jp/mouthbird/archives/2009/06/post_59...

 これは確かにその通り。
 これは言い換えれば、古文学習にも当てはまる。古文の教師っていうのは、そもそも古文が好きだから、自発的に勉強していて、しかもそれが勉強っていう意識でやってないから、つい人に教える時に、勉強の仕方、ノウハウを伝えずに、「読めばわかる」って言っちゃう。

 でも実際、生徒や学生が古文を100回読んでも、わからないものはわからなくて、理解は深まっていないわけ。おそらく100回読むよりも、古文文法を理解しながら読み進めた方が、よっぽど理解できるわけ。わからないものをわからないまま読んでもわかるようにはならない。

 これで学生は、『先生が「読めばわかる」って言うから読んでるのに私、僕、わからない』→自分ってバカなのかも→古文、英語苦手→古文、英語キライ→古文、英語の勉強をしなくなる…っていう負の「ブラックスパイラル」に陥る。

 違うんだ。彼ら古文好きは無意識の状態で、古文に関するいろんな情報をかき集めているから、理解できるだけに過ぎない。その違いなの。
 それに対して、古文嫌いな人って言うのは、単語も調べないし、文法も知ろうとしないまま、言われたまま100回読んじゃっているんだと思う。調べたとしても最低限の量で、率先して他の単語まで調べない。でも、古文好きは調べる。この違い。


 洋楽も一緒で、洋楽が気に入って、英語が好きになる人っていうのは、ここで辞書を引き始める。なぜなら「知りたいから」。

 この「知りたい」っていうは勉強じゃないわけ。辞書を引くっていう作業は自発的かつ無意識であって、作業のうちに入っていないわけ。だから彼らは、「繰り返し読んでいるうちに、自然に英語が(古文が)読めるようになった。」と錯覚しているわけ。

 だから英語が好きで英語教師になった人が、必ずしも英語を教える事に長けているとは限らない。そのやり方が、他人にも通用するものだという思い込み、前提で伝えていて、エラーを起こしている。

 前提が間違っているんだから、結果も間違うのは当然なのに、それに気づけていないっていうのは教える側の人間にはよくある話。その原因が自分にあることを、微塵も疑っていない。教わる方がバカなのが問題だと思っている。でも実際はその逆で、教える方がバカなのがほとんど。教える方がバカ(=「相手に伝える」っていうことがどういうことなのか、細かく理解できていない)なんだから、教わる方ができるようになる事はない。

 それだけ「できる」とか「理解する」のと、「教える」のは別物で、次元が全く違うってこと。


 サッカーが好きで人よりも常に優秀で、そうなるとますますサッカーが楽しくなって頂点に立ったジーコよりも、サッカー選手としては今ひとつだったトルシエの方が、うまくない、強くない選手、チームが、サッカーがうまい、強い、選手、チームに勝つにはどうしたらいいのかを、考えてきたわけ。

 ジーコはそこを考えるよりも、才能と量による訓練=練習、経験、そして何よりサッカーが得意だっていう自信、自負でクリアできちゃった人。好きだから、練習も嫌じゃない、そうすると人よりうまくなるから楽しくなる、楽しくなるとますます好きになる、好きなるから…っていう「黄金スパイラル」が完成するわけ。
(この「人より○○が得意だ」っていう認識は、嫌らしいけど、この世を生き抜く重要な認識だと思う。)

 「量」って言うのは「練習量」の事だけど、これもさっきの英語好きの辞書と同じで、彼らは遊びの中からスキルを身につけているから、「練習」じゃなくて「興味」なわけ。これは彼ら本人の中では、「練習量」には換算されていないの。

 だから、どういう風にすればできるようになるかっていう、いわゆる「プロセス論」とかっていう「理屈」には長けてはいなかった。
 もっと言うと、誰かの成功法が必ずしも、いつも常に他の誰かにも通用するわけじゃないってこと。そこは各自、工夫する必要があるってこと。

 古文でも、英語でも、数学、現代文、スポーツでも何でもそうだけど、こういう成長過程の人を伸ばすプロセスっていうことに関しては、才能や、その対象となるものが好きで成功した人よりも、数多くの失敗や、うまくいかなくて悩んだ末にできるようになった人の方が、そのプロセスを細かく刻んで理解しているから、教える事に長けていたりする。

 そういうことを感じた。
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コメント

1番~4番を表示

2012年
01月20日
20:31
mouthbirdさん

わざわざ感想を日記にしていただいてありがとうございます。大変感謝しております。
体調が現在あまりよくないので、お返事が遅れました。申し訳ありませんでした。

正直いろいろなことを書きたいです。ただ書ききれないので(これでも)少なめにします。

まず、「面白い」とおっしゃってくださいました。(ある意味ありがとうございます) ただ「面白い」よりも「意外」と思ったのではないかと思っています。Q-Engにいらっしゃる方は「普通」は英語が嫌いなはずがないですから、私のような「嫌いな人の考え方」は「異質」に思えるはずと思うのです。どうでしょうか?

ちょっと「ある話」をさせてください。
「東京ラブストーリー」などの作品で有名な漫画家の紫門ふみさんのある短編マンガでこんな話があります。
------

・主人公は高校生の女の子。
・この子には母親がいない。小さい頃に母親が家出したから。
・母親が家出した理由は母親と祖母(母親からすれば姑)との確執。いわゆる「嫁姑問題」というもの。
・主人公の祖母は、母のいない主人公を不憫に思い、小さい頃から可愛がり、高校まで育ててきた。

・その祖母が病没した。
・そのタイミングで、母親が家に戻ってきた。
・主人公は、戻ってきた母親をあまり好ましく思わなかった。「今更戻ってきて何よ。祖母や私がどれだけ苦労したのか!」と思った。

・葬儀を終え一段落すると、母親はすくさまこんなことを言い出した。「この屋敷もだいぶ古いし。今は売り時で高く売れるのでこの屋敷を売ってしまうのはどう?」と。
・主人公は即座にこう言った。「何を言っているのよ! この家はお婆ちゃんとの思い出がたくさん詰まった家よ。あんたのわがままで家からずっと離れていたくせに、死んだら戻ってきて、いきなり「売れ!」とは何よ!?」と。

------

ここまで読んでどう思いますか? この母親の言動が理解できますか? 私がこれを読んだとき、私はこの段階では理解できませんでした。

続きはこう↓
------

・母親は母親なりの理由があった。
・母は家出をする前、祖母(姑)にかなり厳しいいじめを受けていたのだった。
・つまり、この屋敷は「姑(祖母)のいじめを思い起こす象徴」だった。

===

・つまり
主人公にとって、
 ⇒「屋敷」は「祖母との良い思い出の象徴」(プラスイメージ)
母親にとっては、
 ⇒「屋敷」は「祖母のいじめの象徴」(マイナスイメージ)
ということなのです。

-----------

何が言いたいかというと、

英語が出来る人にとっては
 ⇒英会話・英会話番組・洋楽・留学は、「プラスイメージ」
英語ができなかった人にとっては
 ⇒英会話・英会話番組・洋楽・留学は、「マイナスイメージ」
になっているということです。

普通、英語の先生なるような人は、
 ⇒英会話・英会話番組・洋楽・留学は、「プラスイメージ」
なのです。
そういう人はきっと
・英会話の授業が楽しかったか、会話練習ができたとき、「英語がしゃべれる~」という感覚が嬉しかった。
・英会話番組は、見たとき、少しでも覚えて何か機会があったら覚えようと躍起になる。
・洋楽は、なんとなくカッコよく思えた。 英語の歌詞が歌えたとき「快感」だった。
・留学は、そうした体験が出来るなら凄ぶる嬉しいと思える。
…という感じだと思います。

しかし私はそうではない。
・英会話は私にとっては授業で上手くいえたことがなく恥をかかされた思い出しかない。
・英会話番組は、英語が発音ができなかった苦しい思い出しか思い出さない。
・洋楽は、聞けば好きなるよ、と言われて試したが、ちっともそんなことはなかったので「嘘・欺瞞」の象徴。それに歌わされたときに歌えなかった「恥」の象徴。
・留学は「なぜ、恥をかくだけの所に行くのか」理解できない。どうせ英語ができない俺が悪いんだろうよ。悪かったかな!…としか思えない。
 という具合です。


問題は
【英会話・英会話番組・洋楽・留学を「プラスイメージ」と思う人】は
【英会話・英会話番組・洋楽・留学を「マイナスイメージ」と思える人】がこの世に存在する
…と思えるかどうかです。

さっきの漫画の例で言うと
 主人公は[なぜ母親が家を売りたいと言い出したのか]を理解できるかどうか
ということです。

実際、漫画の方では、このあと主人公と母親は話し合います。このとき主人公は、なぜ母親が家を売りたいと言い出したのかを理解します。母親も、娘(主人公)の気持ちを理解します。
結局、家は売らないことになります。ただ娘(主人公)は「家が残ることは母に相当な我慢を強いている」と認識し、母の我慢強さを「立派である」と認識することで、この話は終わります。


生徒側には、得意な人も苦手な人もいます。
・得意な人は英会話・英会話番組・洋楽・留学を「プラスイメージ」で捉えるのでなんともないのです。
・苦手な人は英会話・英会話番組・洋楽・留学を「マイナスイメージ」で捉え、苦しむのです。

しかし(少なくとも私の体験上では)「英語の好きな人(先生を含む)」が
【英会話・英会話番組・洋楽・留学を「マイナスイメージ」と思える人】がこの世に存在する
…と思って下さった例は、1つもないのです。

だから、普通の「英語の先生」は「自分のプラスイメージの物」を盛んに押し付けるのだと思います。他の教科でそういったものを押し付けられた覚えがありません。

私はずっと「マイナスイメージ」を植え付けられたわけです。
で、今年のセンター英語では「全部」また押し付けられた!
なので腹がたった訳なのです。

たっつんさんのこの感想を読んで、私は「たっつんさんは、「私がそれらをマイナスイメージと思ったこと」をどうお思いかな?」と思いました。

---

あと、アルク様がある程度好き勝手に私に書かせてくださっているのは、「原稿料が発生しないから」「ページビューが稼げるから」だと思います。「面白いから」だったらいいんですけどねー。

では今後とも、私の連載をお楽しみください。m(_ _)m

2012年
01月25日
23:21
たっつんさん

 返事遅くなりました。いやぁ、忙し過ぎですwww

 紫門ふみさんのお話、興味深いストーリーですね。
 最近、思うんですけど大人…否、人って年を重ねていくと、それまでの経験した事を基準に物事を判断してしまうっていう事ありますよね。特に失敗は避けたいから、過去の苦い経験はその強度により、後々のその人の価値観の方向性を決める要素にもなりますよね。

 こういった思考回路の生成は避けられない、というか、必然的にそう考えてしまうというか…それがその、自分自身、客観的に考えた時に、「単なる偏見だ」ってことに気づいてもいるんだけど、ぬぐい去れないというか…いわゆる「しがらみ」っていうヤツなんでしょうけど…それは固執でもあるし、こだわりでもあるし、一種の哲学でもあるような物でもあると思います。

 大人っていう生き物は、少なからずみんなこういった過去の失敗、あるいは成功から生成された観念、価値基準というのがあるような気がします。それが時として、衝突の原因にもなります。

 そういった考えが偏見である事も理解しているんだけど、それを否定すると、今度は自分のアイデンティティを否定するような状態になる事もあって、それを簡単に否定できなくなってたりする葛藤の状態に陥るんですよね。この状況は、すごく苦しいです。

 当然、僕にもそういうものがあります。アインシュタインは「常識とはその人が18歳までに集めた偏見のコレクションである」と言いましたが、この言葉の示している事は、僕がココに書いていることと同意だと思います。
 前回の小説のお話にもあったように、過去の失敗あるいは成功した経験等が元になった「信念」とかがあって、その学習機能が、結果として世間と自分っていう関係性において不都合な要素にしてしまうものもあるわけです。先生が述べた英語がそのいい事例だと思います。

 何が言いたいのか、というと「人間関係における、それぞれの価値観の相違」を僕が今、どう感じているか、ということです。

 人は存在そのものは、体がある場所に存在していますが、その個人のアイデンティティは、必ずしも同じ場所にあるとは限りません。というより、常に誰かの中を生きている、という言い方の方が正しいでしょう。自分の考え方を理解してくれる誰かの中を生きている。だから理解されない事は苦しいし、生きている事、存在している事にならない。

 それゆえ「価値観の相違」というものは、お互いの存在をかけた衝突の原因になります。戦争はイデオロギーの衝突によって引き起こされます。


 ーまた、英語ができる事は素晴らしい、というような日本における世間の価値基準、偏見については、Sir Ken Robinsonという方が、本質的な点でこの話題に共通する興味深いプレゼンをTEDで行っていました。
 それは、こういう内容です。

 「世間は教育という人を育てるプロセスで、子供が年を重ねるにつれ、身体的、芸術的、感性的な成長よりも、論理的な思考つまり学問的な成長に熱をあげてしまう傾向があるが、それは違う。」という、私たちのステレオタイプな発想にメスを入れる刺激的な主張です。

 彼は続けます。
 「数学や語学といったいわゆる「勉強」は評価されるのに、音楽とか芸術といった科目ができたところで世間は数学や語学ほど評価しない。なぜなら世間の価値基準は、生産性のある物事にあるからだ。しかしながらそれは単なる偏見である。」と。

 そう音楽ができたところで、世間は結局、英語や数学ができる子供や人をより高く評価するのです。それはその力が、効率よく金銭的な受益に繋がっているからです。しかしそれだけです。音楽ができる事にただ単に価値基準が置かれていないだけです。おかしいですよね。

 私たちは気づかないうちにmoneytizeできるもの、金銭に効率よく替えられるもの、力を重点的に評価してしまっていたのです。英語でいうならcaltural controlです。そういう物事に価値基準を置くような教育だったわけです。


 まとまりのない話になりましたが、僕は先生が英語に対してマイナスイメージがあることには以下のように思います。
 もちろん一般的に考えて、英語ができる=苦手な英語を克服した、と言えるレベルにあるのに、英語にマイナスイメージを持っている点が不思議だと思います。それは、過去のそういった経験から、というのはいくつかのコメントから理解しています。
 で、そういった経験から、同じ思いをしている学生を救いたい、という考えも理解できますし、そういうアプローチがある事も受け入れられます。

 さらに、英語大好き星人による「好きこそ物の上手なれ」っていう安易なアプローチに一石を投じている点でも評価できます。

 最近、「日本人の9割に英語は要らない」っていう書籍が発行されました。

 私は、こういう世間がある方向に熱を上げて向かっている時に、真逆の意見を言う人に注目しています。世間の下している判断がいつも正しいとは限らないからです。マイノリティであっても、そういった意見は見過ごせません。
 たとえば世間がある潮流に乗ると、後追いする人は、あまり考えずにその波に乗りますよね。英語然り、iphone、ipadしかり。考えるより乗った方が都合が良いから。別に深く考えて結論を出したわけではないはずです。

 こういう時にマイノリティがきちんとした、客観的な視点で言う意見は大事です。それゆえ、世間と違った視点で捉える先生の視点が、僕には面白く=興味深く映るのです。


 個人的に英語が好きとか嫌いとか、という判断は僕はどう思っているのか、というと僕は育った環境が成田っていう国際空港の近い都市にあって、いわゆる''ガイジン''には免疫があったと思います。それゆえ英語にも親しめたし、ある種のいい影響を受けていたと思います。だから好きか嫌いかで言うと、好きです。

 ただ、好きとか嫌いって、そんなに意味あるかなって思うんです。現段階では、人生7、80年です。その間に英語が好きとか、できるとか言っても、お付き合いするのはせいぜい多くて4、50年の短い間だけです。
 僕は英語に、好きとか嫌いとかというよりも、経済的、人文学的な広がりを感じる事ができる、profitable、広くはbeneficialなものを英語に感じている、というのが一番の動機のような気がします。

 だから今更、スペイン語とか、フランス語とかの遠い国の言葉を学習する気にはなれないです。そんなことよりも、理解し合える、あるいは世界を広げてくれる人や大切な人と、話を重ねていきたいです。
 尾崎豊は「生きるという事は、日々を告白していくことだ。」と言いました。とても哲学的な言葉です。これはつまり、僕が先ほど述べた「人は他人の中を生きている」という事に他なりません。
 そういう過ごし方をする中に、英語も存在しているような気がします。

 たくさんの時間を、記述と回答を読むことに割いて頂きありがとうございます。
 今後も注目して拝読していきたいと思いますので、執筆のほう頑張ってください。笑える批判、待ってます。

2012年
01月27日
23:29
mouthbirdさん

アインシュタインの言葉を興味深く感じました。…「常識とはその人が18歳までに集めた偏見のコレクションである」
↑これを少し、私は↓こう変えたい、と思いました。

「『その人の常識』とはその人が18歳までに集めた偏見のコレクションである『ところから出発する』」(世間の常識ではなくて!)

 ↑こうしたいです。「その人の常識」は歳をとりながら変わるものだと思います。

>一般的に考えて、英語ができる=苦手な英語を克服した、と言えるレベルにあるのに、英語にマイナスイメージを持っている点が不思議だと思います。それは、過去のそういった経験から、というのはいくつかのコメントから理解しています。
>で、そういった経験から、同じ思いをしている学生を救いたい、という考えも理解できますし、そういうアプローチがある事も受け入れられます。
>さらに、英語大好き星人による「好きこそ物の上手なれ」っていう安易なアプローチに一石を投じている点でも評価できます。

ありがとうございます。そうおっしゃってくださる方が1人でもいらっしゃると、私はとても嬉しく思います。


>一般的に考えて、英語ができる=苦手な英語を克服した、と言えるレベルにあるのに、英語にマイナスイメージを持っている点が不思議だと思います。それは、過去のそういった経験から、というのはいくつかのコメントから理解しています。

はい。これは2つのことがあります。
1・強烈に英語ができなかったこと(皆さんが考えているよりはるかにできませんでした)
2・にもかかわらず「好きになれ!」と言われたこと。

言ってしまえば、ドラえもんに「ネズミを好きになれ!」と言っているようなものです。無理だと思いませんか?

>で、そういった経験から、同じ思いをしている学生を救いたい、という考えも理解できますし、そういうアプローチがある事も受け入れられます。

はい、ここは「私しか言えないこと」だから言っている部分です。
「私がブロクで言っているようなこと」は、「英語が得意でないと言えない」と思いませんか? つまり私は「苦手だった当時言えなかったから今言っている」わけです。私は当時どれだけ言いたかったことでしょう。
 英語が嫌いな中学高校生が同じことを言ったところで「英語ができないいいわけだ」としか世間は認めてくれないのです。

 私が中学高校から「ずっと思っていた疑問(例・英語は(できるのならば『有利』ではあるが)必要ではない)」は、
⇒英語が得意にならないと言いたくても言えないのです。だから「得意になった」今しか言えないのです。
しかし、私のように得意なれる英語が嫌いな人は「異常に」まれです。だから、私は英語が嫌いな彼らのために、「彼らの代弁をしなければならない」と思っているのです。

>さらに、英語大好き星人による「好きこそ物の上手なれ」っていう安易なアプローチに一石を投じている点でも評価できます。

これはどちらかというと、嫌いな人のために言っています。英語嫌いな人でも「嫌いなまま得意にはなれる」と私は嫌いな人に言いたいのです。 「嫌いなままで無問題」と言わないと、嫌いな人は英語の学習をしませんし、苦手な人は勉強しないと得意になれないのです。


>好きとか嫌いって、そんなに意味あるかなって思うんです。現段階では、人生7、80年です。その間に英語が好きとか、できるとか言っても、お付き合いするのはせいぜい多くて4、50年の短い間だけです。

申し訳ないですが、これは私の「資質」によるものが高いのかもしれません。
それにプラスたぶん
・三つ子の魂100まで
という理屈だと思います。

それとあと、あまりに酷い苦痛は一生ついてまわると思います。(例えが悪いかもしれませんが、どんなに人生が長くても、ユダヤ人はヒットラーを憎むと想いませんか? そんな感じです)

以下は仮定法で言うのですが、
もし、私が中学高校のとき、英語の先生に
・英語はできるのならば有利ではあるが「必要」ではない。ただし受験では必要。
・英語は勉強すれば嫌いなままでも得意になれる。
・あなたのような英語が苦手な人は文法さえマスターすれば英語は得意になれる条件が揃う。
・英語が嫌いな人はほっておけば英語の勉強をしない。だから誰かに習って無理に(文法を中心に)学習すれば、英語の成績は上がる
と言われたならば
 ⇒英語の成績が上がって、英語好きになっていた

と思います。しかし言われたことがない。中学高校の生活習慣は見事に「真逆」だったので、もはや治りようがない、と私自身は思います。


もし治るとすれば
↓これが「世間の常識」と認められる(これも仮定法で)場合だと思います。

・英語はできるのならば有利ではあるが「必要」ではない。ただし受験では必要。
・英語は勉強すれば嫌いなままでも得意になれる。
・あなたのような英語が苦手な人は文法さえマスターすれば英語は得意になれる条件が揃う。
・英語が嫌いな人はほっておけば英語の勉強をしない。だから誰かに習って無理に(文法を中心に)学習すれば、英語の成績は上がる

↑これが「世間の常識」になれば、私がブログなどで叫ぶ必要もなく、私は英語好きになると思います。ですが、けっしてこれは世間の常識にはならないでしょう。100%無理でしょう。

したがって、私は生きている限り「叫び続けなければならない」と思っているのです。

2012年
02月01日
15:15
たっつんさん

 そういえばドラえもんも、ネズミに耳をかじられたのが「ネズミ嫌いのネコ」になった原因ですね。ネズミ嫌いのネコっていうのは、通例の一般論とは逆説であり、マネジメントや論理学用語で言うなら「ブラックスワン=黒い白鳥」の理論ですね。たしかにドラえもんに一生ついてまわる酷い苦痛だと思います。どら焼きは甘い体験だったわけですね。
 なかなか感慨深い設定ですw

(*ブラックスワン=全ての白鳥は白い、という一般論は、たった一羽の黒い白鳥が存在すれば覆されるという、例外を提示する事で、一般に支持されている考えを否定できるという話。実際には存在しないので、ある種の思考実験なんだと思います。
 具体的には、東電は歴史的統計から考えて、東日本大震災クラスの地震は今後も起きない。なぜなら事例がないから。という考えで地震対策を取っていました。それがたった一回の地震で全てが覆されてしまった。これをブラックスワンのいい事例だと、一部では言われています。)

 その路線で行くと、先生は「全ての英語ができる学生は英語が好きである」という説を覆す存在ですね。
 確かに、何につけても、できない人が言っても説得力を持たないっていうのはありますね。見方によっては偏見のようでもありますが、知らない人がコメントしても、やはり知らないのだからコメントは正当性を得ない、ということにもなりますね。
 だから先生は、受験英語っていう大学に受かるのには避けて通れない英語をできるようにしたと。

 文法学習については、僕も一文が読めない人が長文を読めるようにはならない、という先生の言葉に納得して文法を理解することに重点を置くようになりました。
 文法学習はだいたいの人が嫌いで、それゆえに意味で理解をしてしまう。つまり暗記に走ってしまいますね。それゆえ、時間が経つと忘れたり、応用が利かなかったりしてしまいます。文法学習というのは言語学習の肝だと思います。
 文法学習ができれば英語でもいい点数が取れるし、得意科目になると思います。点数が取れれば楽しいと思います。少なくともストレスにはならない。「楽しいのと好きなのは違う」と、あるTOEIC講師は言います。先生の英語もそんな感じなのでしょう。楽しいと思っているかはわかりませんが。

 しかしながら英語の全体像、つまり受験英語やTOEICのようなビジネス英語、英検のような総合的な英語、大学での英語論文やレポートの英語の書式、を把握できるようになって思うのですが、英語の総合力には受験英語で重点が置かれている文法だけでは不十分だと思うようになりました。これはおそらく全国の大学生が、入学してTOEFL, TOEICを受けて痛感するところだと思います。
 受験英語もそういう方向性を探り始めています。今後は文法だけでは、対応できなくなってきます。英語嫌いの学生にとっては、さらに負荷の強い英語になるでしょう。


 一方で、ここ5年くらいで言われ始めた事だったと思いますが、英語がどの大学の受験でも必須科目っていう前提がおかしいっていう話がありますね。納得できる話です。
 近年の世界情勢を見渡した場合、むしろ中国語なんじゃないのか? っていうのもありますし、人材マーケットにおける個人の戦略として考えるのであれば、スペイン語、フランス語、韓国語に対応できる人材になる、というような多様性を持ってもいいと思います。事実、センター試験は「外国語科目」として、そういったコンセプトを持っています。それに高校が対応していないだけです。
 高校がもっと学生に自由度を与えて、大学みたいに語学系を選択必須科目制にすればいいと思うのですが、高校の教師や運営部ってだいたいそういうビジネスストラテジーに欠けているような気がします。それとも文部科学省(庁?)の問題でしょうか?

 さらに「考える力」というものを考えると、論理学では世界をリードするハーバード、ケンブリッジがあるアメリカ、イギリスの土壌を考慮すれば、英語で論理的な事を考えられるのが良いとは思いますが、そういうレベルに英語で達するにはもっと時間が必要で、受験生には日本語で考える方がずっといいです。ということは国語の力の方が「あるべき大学生像」に近づくわけです。
 国語と数学のロジカルな思考力、というのは経済学、建築学を通して、さらに職場を通してもその不足を、自分を含めた周囲に感じる事であります。

 先生の意見と近年の多様性を考えると、英語教育のやり方に問題があるということが、たしかに感じられます。なにしろアメリカが世界をリードしてきたから、それに追いつくには英語だと、邁進してきたのが20世紀の日本だったわけです。それを今一度、見直す時期なんでしょうね。
 プログラミング言語が英語で、世界の論文発表も英語である以上、英語の世界的地位は堅いとは思いますが、日本の英語教育は見直し時期に来ていると感じます。

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