A Report of Ebola in Africa
私たち人間は、それぞれの言語を文脈と統計的な判断で聞き分けている、と最近思います。テレビの向こうのこもった発音でも、それが日本語なら聞き取れる割合が大きいのは、文脈と統計的判断、つまり経験で、その人が話した内容を聞き取っているからだと。「経験という名のデータ」を元に聞いている、ということです。
ゆえに青森の津軽弁、沖縄言葉などは聞き取れない。英語もそれぞれの習熟度、音の明瞭さ、聞いてきたデータ数、文脈、それらが総合的な量となって聞き取れるようになる。
言語が聞き取れる割合=習熟度×音の明瞭さ×文脈×経験数、ではないかと。
アフリカの英語はメジャーな英語からは外れる。だから聞き取れない量も増える。
このviceっていうメディア、かなり露骨で、編集が少ないグロいメディアっていう印象が強いけど、日本のvice支社よりも世界のviceはもっと強烈。
エボラ熱は、落ち着きを見せ始めているが、一方でWHOが先日、西アフリカで感染を回避したい密集都市のモンロビアに到達した、とレポートされている。
そしてこのアフリカの粗野な環境。これを見るといかに日本がsanitationの行き届いた国なのかがわかる。食材にしても、管理された畜産により病気を持つ家畜は排除されている。もしこの機能がないと、鳥インフルにかかった鶏肉がマーケットに出回る事になる。
改めて、食材を切る、焼くなどをして、さらに砂糖、塩、酢、しょうゆ、みそなどの調味料で、煮る、つける、などして味を整える食文化を持つ日本の素晴らしさを残念な形で認識してしまう。食文化等を始め、各分野の技術レベルは、やはり地域の文明の洗練度を端的に表していると思う。
確かに、こういった行き届いた畜産、物流システム等により、その代償として、日本で育つ子供が自然と隔離された「ラップ化社会」(*)に生きる事になり、知能の発達が遅れるということもあるが。
それに比べると、このアフリカの人たちは、野生に限りなく近い。皮肉も込めて。
*…建築家の伊東豊雄氏が警鐘した社会で、子供がスーパーマーケットに並ぶサランラップに代表されるラッピングされた切り身の鮭が、「鮭」の全部であり、切り身が海を泳いでいる姿だ、と思ってしまう状態。鮭という魚が持つ香り、匂い、鱗の触った感じなど、五感を刺激する要素が減少していて、世界と切り離された、隔離された空間で生きているような、自分も大きな自然の営みの一部なんだという実感が持てない世界。
そんな社会そのものがラップ化され、自然が持つ有機的な仕組み、生生しさと切り離された社会のこと。
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