social networkのDVDが届く。
最近、寒くなって来たしちょうどいいな、って何が?って話だけど。
わかるかな、この映画のBGM↓。寒くなる冬にぴったりなんだ〜。映画って出すタイミングって大事だと思うんだよね。(あと小説も。『ホワイトアウト』のような小説は暖房を付けずに真冬に読みましょう。冬山の猛吹雪が聞こえてきます。僕は聞こえました。)
この映画、公開されたのは、今年の年初めだったか、映画館で観ました。
この、冬のモノクロな孤独感を際立たせるこの音がたまらなく好きです。
acid で、手触りの悪そうな、バイオリンのざらついた音、不規則に落ちる不安定で、陰鬱なピアノの音、不快なノイズ音だけを集めたような楽曲で…でもそれがある種の恍惚としたイメージを与えていて、最高です。
「予想通りに不合理」、「不都合な真実」、「残酷な世界で生き残るたったひとつの方法」等ショッキングな書籍のタイトルは目を引くが、得てして妙な感じにこの世界の的を得ている。非常識の方が正しい事がある。
そんな感じで、不快な音を集めてみたら不思議な調和を持った曲になった、という感じがする。
僕はこの音楽が映画のポイントにもなっていて、facebookのような、世界で時々起こる、こういうある種の偶然的進化は、普段日の目をみない野暮ったい人間が意外と掘り当てたりして、世の中の不思議な奇跡を演出していると思う。
パソコンなんてgeek=ネクラなオタクのやるもの、って一昔前までみんな思っていたはず。
それが今や、仕事で欠かせないスキルで、みんな競って腕を磨いている。今や各々に取って生命線でもある。そんなPCの世界を、昔は馬鹿にされていた人達が席巻している。
さらに言えば、この音楽に「人生とはもともと孤独なものだ」と、哲学者に言われているようなところも好き。『幸せだと思える事の方が実は少ない』、とかなんとか。
ところで、この映画の評論はいろいろされているが、僕はamazonにあるカキコミが最も優れた評論であると思っている。
以下、引用。
ー「私みたいな人間をメンバーにするようなクラブには、入りたいとは思わない」
『アニー・ホール』の冒頭でウディ・アレンが紹介した、この有名なジョークは、逆向きに言い換えれば、「自分を決してメンバーに迎えてくれないようなクラブにこそ、私は入りたい」ということになる。そして、これこそが、映画『ソーシャル・ネットワーク』の核心である。
映画は、Facebook開発に賭けるマーク・ザッカーバーグの情熱を、ある種の代償行為として描いている。それは、大学のファイナルクラブやボート部に代表されるような「強者」のネットワークに対する劣等感、そして何よりも、ひとりの女性との関係に失敗したことの挫折感をめぐる、終わりない代償のオブセッションである。
だが、ユーザー数や時価総額が、どれほど爆発的に上昇しようとも、そうした社会的・経済的な「成功」は、最初の挫折がもたらした空白を、決して埋め合わせてくれはしない。主人公マークは、文字通り世界最大の、誰でもメンバーになれるクラブを作った。だが、彼自身が最も入りたいと望んでいたクラブには依然、参加を許されぬままでいるのだ。
そして、まさかこれこそが、われわれの人生の条件なのではないだろうか? オブセッションとは、そもそもの定義からして、不可能な対象を目指す行為ではなかったか?
……結局、人は誰もが、決して「承認」を得られない相手に、そうと知りつつ、今日もまた「リクエストを送信」し続けることを、止められずにいるのだとしたら?
そう考えると、映画のラストシーン、誰もいない部屋に響くキ-ボードの音は、なんと感動的なのだろう。 』
そう、彼が見事に評論してくれている。この世界は ironical な世界で、一番手に入れたいもの以外は手に入るのに、一番手に入れたいものは手に入らない、っていうことがある。そのために頑張っているのに、手にしたいものだけ手に入らないっていう美しい irony。この映画のテイストは、William Shakespeareの描く irony に近いとも思う。
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