今日はここまでのまとめです。
ここまでで「コミュニケーションかもしれない3つの例」が出てきました。今回はそれぞれの分析です。
まず、コミュニケーションという言葉をきちんと考えます。
私は、「意図が伝わること」と理解しています。しかし、Bonsuke先生からもご指摘があったように、それだけではないようです。
wikipediaによれば【社会生活を営む人間の間で行われる知覚・感情・思考の伝達】ととりあえず載っています。wikipediaにはもっと詳しく考察されています。「相互の理解まで含む」などの説明が加わっています。
私はとりあえず、「言語の意味」と「態度」と「感情」の分野に分けて、それぞれどのようになっているか考えました。それを以下で示します。
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(1)我が母の例…
ドイツ人の集まるパーティで、母が体験した例
・母から、ドイツ人へ
<言語の意味的側面>
母が自分で喋っている意味を「母自身」は知らない
→母の考えている意図をドイツ人に伝えたわけではない
→しかし、ドイツ人は母が喋ったドイツ語の意味を理解した。
<態度的側面>
母は笑顔で語ったはずである。
<感情的側面>
→母が楽しく感じていることも、ドイツ人は分かったであろう。
・ドイツ人から、母へ
<言語の意味的側面>
ドイツ人は母にドイツ語で返事をしたに違いない。
しかし母は、ドイツ人が喋ったドイツ語の意味をまるで理解していない。
<態度的側面>
ドイツ人はゲラゲラ笑って喜びを表現した。
<感情的側面>
→ドイツ人の表情や笑い声などから非常に喜んでいることを母は悟った。
【この出来事の功罪】
母は満足
ドイツ人も満足。
→
母は「たとえ自分は意味が分からなくても、自分が喋る外国語の音声だけで外国人を喜ばせたり、自分が喜んだりすることがある」「聞こえたドイツ語の意味は全く分からなくても【喜んでいる】ことだけは確かであり、実に楽しい」…ということを悟ることに成功した。
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(2)私の例…
小4の時、ロサンゼルスのホテルで体験した例
・私から、外国人へ
<言語の意味的側面>
私は一言も発していない。その言語を全く知らないからである。
→私は彼女たちに私が考えている意図(私は何したので怒られているのか)を伝えたかった。しかしその言語を知らないため、全くそれができなかった。
外国人も、私の言葉からは何も得ていないだろう。そもそも私は日本語ですら全く喋っていないのだから。
<態度的側面>
私は、困惑と恐怖の表情を浮かべていたはずである。
<感情的側面>
もしかしたら、私の表情で「私は困っている・恐怖を感じている」ことは、外国人に伝わったかもしれない。しかしそれは定かではない。
・外国人から、私へ
<言語の意味的側面>
彼女たちは私にある意図を伝えるために外国語を話したに違いない。
しかし私は、外国人が喋った外国語の意味をまるで理解していない。
<態度的側面>
外国人の態度や口調などから、彼女たちは「私の何か」について怒っていることは私に伝わった。
<感情的側面>
→私は、困惑と恐怖しか感じられなかった。
【この出来事の功罪】
私は不満・恐怖しか感じなかった。
外国人がどう思ったかは不明。
→
私は「意味が分からない外国語の音声を聞くと、自分は苦しむ」と悟った。
(3)私の例…
小4の時、ロサンゼルスのディズニーランドで体験した例
・私から、アメリカ人へ
<言語の意味的側面>
私は日本語で自分の意図を叫んだ。
→私は彼女たちに私が考えている意図(私は固定装置が上手く作動していないので生命の危機であること)を伝えたかった。
しかしアメリカ人は「固定装置が上手く作動していない」とは微塵も分かっていなかった。
<態度的側面>
私は必死の形相であった。「普通の状況じゃないんだ! 死ぬ可能性が恐ろしく高いんだ!」ということを態度で必死に示した。
<感情的側面>
私の表情で「私は困っている・恐怖を感じている」ことは、アメリカ人に伝わったはずだ。だって彼女たちはそれに気づいたから、私に顔を向けてくれたはずである。わざわざ私に向かってあやすように「ベロベロバー」とおどけてみせてくれた。
・アメリカ人から、私へ
<言語の意味的側面>
彼女たちは何も喋っていない。
<態度的側面>
私に顔を向けてベロベロバーとおどけながら手を振っていた。満面の笑顔。
<感情的側面>
→彼女らの表情から「大丈夫だよ。そこまで怖くないよ。怖がりの子供だなあ~あっははー」という感情が読み取れた。
【この出来事の功罪】
私は不満・恐怖しか感じなかった。この上ない恐怖であった
アメリカ人は「怖がりの東洋人だったなww 子供だからしょうがないかねえ、あっははー」ぐらいにしか思ってなかったに違いない。きっと彼女たちは「この子供にきちっと対応できた」と考えて、満足だったと思われる。
→
私は「意味が分からない音声をアメリカ人に伝えても意味がない。次は上手く自分の意図を英語で表現しないと次こそは死ぬ」と悟った。
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●まとめ
我が母は
若い時に、「たとえ自分は意味が分からなくても、自分が喋る外国語の音声だけで外国人を喜ばせたり、自分が喜んだりすることがある」…ということを悟ることに成功した。
私は
幼い時に、「意味が分からない外国語の音声を聞くと、自分は苦しむ」と悟った。
幼い時に、「意味が分からない音声をアメリカ人に伝えても意味がない。次は上手く自分の意図を英語で表現しないと次こそは死ぬ」と悟った。
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さて、ここでようやく私が言いたいことが言えます。
我が母の場合…
外国語の音声で楽しかった。意味は母にとっては関係なかった
→このような人は「耳>意味」の「
耳タイプ」になりやすい。
私の場合………
外国語の音声で苦しかった。意味こそが重要。意味がきちんと伝わらなければ意味がなく、意味がきちんと伝わらなければ最悪「死ぬ」。
→このような人は「意味>耳」の「
意味タイプ」になりやすい。
のではないかと考えているのです。
無論、これだけが両者になりやすい理由ではないです。ただ両者には「基軸となる発想」にこのような「差」がそもそもあるような気がするのです。どうでしょうか?
金曜日はいつものニコ生英文法講義。この続きは来週の
月曜日です。
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