今日は K先生と仮想K先生の最終回です。
今日はまとめ。
私の当時の英語の先生である
K先生は
存在します。しかし
仮想K先生は
存在しません。
私は普段の授業で学生の生徒さんに、このK先生の話をします。
私の生徒さんの多くは英語が苦手であり、そういう苦手な生徒さんの多くはこう言います。「
うちの学校の英語の先生もK先生に似ている」と。
つまり、今回紹介したような
K先生のような先生は日本国中のあちこちにいる、ということです。
K先生のような英語の先生たちは
・
自分は理数系が嫌いでできないことを披露し、でも英語がずば抜けてできることを主張する
・これからは日本で英語が必要になると主張する
・ちょっとやれば英語はできるはずなのに、なぜそのちょっともやらないのか、と主張する
という共通点があります。
英語が嫌いで数学ができる生徒はK先生のような先生が嫌いです。
特に
前回 述べたように
・ちょっとやれば英語はできるはずなのに、なぜそのちょっともやらないのか、と主張する
という先生が嫌い です。
前回、私は「
K先生のセリフ」として↓このように書きました。
K先生: ◯◯! お前は数学ができるようだな? 数学は才能だが、英語は才能じゃない!
:
英語はちょっとやるだけでだれでもできるようになるんだ。せめて平均ぐらいすぐだろうが!
この◯◯くんは↑こう言われて納得するかどうかを考えてほしいのです。
この◯◯くんは、おそらくは本当に数学の才能があると思います。数学の才能があったとして、
英語はどうなのでしょう? 英語は本当に才能が無関係なのでしょうか?
K先生に聞いたら「そうだ」と答えるでしょう。しかし◯◯くんに聞いたら、
◯◯くんは「K先生は英語の才能があり、俺には英語の才能がない」と答えると思います。
◯◯くんは数学ができるわけですから、それなりに数学の学習はしているはずです。いくら才能があったってまさか全く勉強しないで数学ができるようになったはずはありません。
だから◯◯くんは英語も数学と同じぐらい勉強したはずです。少なくとも英語の習い始めは。その後で英語が嫌になって数学よりは力を入れなくなったかもしれませんが。
私はもともと理数系が得意でした。
しかし
私は中1から英語が絶望的に成績が取れず、英語の対策を講じなければならなくなりました。
●担任から「休部しろ」と言われ、好きな部活の休部届けを出し、休部
●(さらに)普段数学をする勉強を英語に当てる
という選択をし、
全てを英語を勉強する時間に当てました。
その結果、私はどうなったか。
→
英語はできないまま(ずばり赤点)
→
得意だった数学も赤点になる
という状態になりました。
そういう時期に私はK先生に↓こう言われたのです。
K先生:
英語はちょっとやるだけでできるようになるんだ。できて当たり前なんだ。せめて平均ぐらいすぐだろうが!
:なぜテメーらはその
ちょっとの勉強もしないんだ!?
そして平手打ちを喰らいました。
つまり、
●部活を休部し
●好きな数学の勉強を諦めて赤点になるくらい英語の勉強をする
このくらいでは
【ちょっと】勉強するぐらいにも当てはまらない
ということ なのでしょうか???
そうなのかもしれませんが、
私にはそうは思えませんでした。
そして↓こう思いました。
「K先生め!
・てめーはどうせ嫌いな数学をろくに勉強しなかったんだろうに!
・俺はあんたの数学が英語に置き換わっただけだ。
・俺が嫌いな英語を勉強しないままでいることのどこが悪いんだ?!
数学は才能で英語は才能は関係ないだと?!
てめーが数学ができない理由は努力不足ではなく才能がないせいなのでてめーは悪くない。しかし、
俺が英語ができないのは才能ではなく努力不足のせいなので俺は悪いのか。だから俺は引っ叩かれるのかっ!!?」
私はK先生に不信感しか抱かなくなりました。
おそらくK先生のような人は
・理数系ができるのは才能であるが、英語ができるのは才能は関係ない
・これからは日本で英語が必要になる
・ちょっとやれば英語はだれでもできる教科
これらを【事実】として微塵も疑っていないのではないかと思います。
彼らは「これらが事実でないと彼らは困る」のではないかと思います。だからこういうことを連呼すると思います。
しかし、言われた方(私)は、どうでしょう?
言われた方(私)は
・
ちょっとやれば英語はだれでもできる教科
↑
そうでないのは自明。過去に既にやってきたのだから。しかしやってもやってもできなかった。
・
理数系ができるのは才能であるが、英語ができるのは才能は関係ない
↑
そうであるとはとても思えない。数学も英語もどちらも才能と多分に関係がある。
K先生のような人は「数学ができないのは才能で英語はそうではない」と勝手に思ってるだけだとしか思えない。(
数学ができない自分は努力不足ではなく才能のせいにし、(自分が得意な)英語ができない生徒は才能でなく努力不足にする。そして平気で人をひっぱたく! なんと卑劣なやつなんだ!!!!!)
・
これからは日本で英語が必要になる
↑
絶対にそうだろうな。まさか「有利」を「必要」と言ってないだろうな?
としか思えませんでした。
そして、
英語の成績の悪い私にK先生は平手打ちをし続けました。
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しょうがねーな、じゃあ事実と認めてやろうか。
と、私は浪人のとき思いました。
浪人時、私は大好きなTVゲームを断ち切り、勉強漬け・英語漬けの毎日を送りました。
浪人の時、私は…
・理数系ができるのは才能であるが、英語ができるのは才能は関係ない
→「そうかよ!」と思い、見たくもない英語と毎日取り組みました。単語を覚え、熟語を覚えました。
・これからは日本で英語が必要になる
→「しらねーが、大学受験では必要だよ」と思い、見たくもないアルファベットと毎日格闘しました。
・
ちょっとやれば英語はできる教科
→「ああ、どうせ俺はその
ちょっともやってないよ」と思い、1年間で150文ぐらいの英語長文を読みこなしました。
その結果
→
一浪ではどこの大学も受かりませんでした。
その時私は「そうか、
俺はまだ【ちょっと】も英語を勉強してないんだな」と思いました。
そこでもう1年浪人しました。もう1年好きなゲームを断ち切り、勉強漬け・英語漬けの毎日を送りました。
・理数系ができるのは才能であるが、英語ができるのは才能は関係ない
→「そうかよ!」と思い、見たくもない英語ともう1年毎日取り組みました。さらに単語を覚え、熟語を覚えました。
・これからは日本で英語が必要になる
→「しらねーが、大学受験では必要だよ」と思い、見たくもないアルファベットともう1年毎日格闘しました。
・
ちょっとやれば英語はできる教科
→「ああ、どうせ俺はその
ちょっともやってないよ」と思い、もう1年間で150文ぐらいの英語長文を読みこなしました。
その結果
→ようやく大学に受かりました。
そのとき私はこう思いました。
→ああ、
これで【ちょっと】英語を勉強したんだな
英語ぐらいできて当たり前らしいので
→
ああこれで当たり前になれたんだ
…と、このように思いました。
この結果、
私にとって【ちょっと勉強する】とは「2年間、全く遊ばずに、嫌で嫌でしょうがないものと毎日格闘する」と定義づけられました。
そして、
このように思いました
「
もう2度と、こんな【ちょっと】の勉強などしたくないな」
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さてここで皆さんに考えてほしいことがあります。
・理数系ができるのは才能であるが、英語ができるのは才能は関係ない
・これからは日本で英語が必要になる
・
ちょっとやれば英語はだれでもできる教科
↑これらは事実でしょうか?
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「K先生」のような英語の先生はおそらく日本国中に存在します。そして
私のような英語嫌いをどんどん増やしていることでしょう。
では「仮想K先生」のような数学の先生にあなたは会ったことがありますか? 少なくとも私は会ったことがありません。会ったらあなたは数学を好きになったでしょうか?
仮想K先生のような数学の先生は存在しませんが、K先生のような英語の先生は確かに存在する のです。
おそらく山ほどあちこちに。
英語が苦手な生徒は
K先生のような先生と
毎日、今日・この瞬間にも歯を食いしばって必死に戦っていると思います。
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