なだいなだ氏が亡くなった。残念、というか立派な仕事を残した方だし、がんで5月に「実は少しつらい」ともらしていたそうだ。つらさから解放されたのだから、ゆっくり休んで頂ければいいのだが、と思う。
この、少しつらい、は実は相当につらい、と言う意味かもしれない、文字通りの少しかもしれない、ヒトによって受け取り方は違うだろう、フランス語の bien みたいなものか。
なだいなだ、これが nada y nada だというのはスペイン語に触れてから、「あ、そうか」と気がついた。
このところ、なぜか著作の「権威と権力」が昔の岩波新書、そのまま手許にあってぺらぺらめくっていてコトバ関連でぜひ引用したい部分があるのでここで記しておく。なぜ、この本があるのか、読んでいたのか、ほぼ検討はつくものの、はっきりしない。けれど、やはり縁か、かっこよく言えば僕のアンテナの一部なのかもしれない。以下、辞書に関わって、或いは、「権威」の定義について、対話形式で書かれている。
― また考えるんですか。それよりも広辞苑でもひいて、その言葉の定義を見たらどうでしょう。そのほうが手っ取り早いですよ。
― おやおや、君は辞書を見れば、そこに正しい定義が見つかると思っているらしいね。
― だって、そうじゃないですか。
― おやおや、君はだいぶ辞書の権威を認めているようだねえ。辞書に書かれているのが正しい定義だとは。
― そうじゃありませんか。
― そこにのせられている意味は正しいか正しくないかの問題とは関係ないのさ。
― おかしいな。どうしてですか。
― 考えてごらんよ。ぼくたちの言葉は、辞書のあとにできたものかい。辞書の前に日本語はなかったの。ぼくたちは辞書にめぐりあう前から日本語をしゃべっていたのか、それとも辞書から言葉をおぼえたのかい。
― いいえ、もちろん辞書の方があとです。
― そうだろう。ぼくたちは、一つ一つ定義もきめずに言葉をしゃべっていた。言葉に、自分なりの意味をあたえて、しゃべっているのだ。だから人によって、時代によって、地方によって、意味が違っている…
ここらで引用はやめます。都合の良い引用になってしまうけれども、この辺は外国語に当てはめても良いのではないか、と僕は考えるのだ。
例えば、きちんとした英語にたくさん触れることで、自ずから汲み取れる語、自分で感じる文法的な法則、そういうものをおろそかにして、例文ベースで「これは、こうで、あれはああです」「こういうときには英語ではこう言います」、ネイティブはフツーこう言います。そんなものに頼っていてうわべの英語は出来ても、中身のある英語を使えるようになるのか。
小学校から英語を導入する。早い時期に外国語に触れるのは悪いことではないと思う。ただ「学力低下」を憂うイマ、何を期待できるだろう。
そもそも、学力低下というよりも学習力の低下が起こっているのだと、僕は考えている。さらには、指導力の低下、親力の低下、ひいては人間力の低下が世界的に起こっているとさえ言える、そんな感じがする。
時間の考えなどは、「ほら、あと5分で次の駅だから」などと、母語で徐々に子供でも身につける。天気予報をみれば、地理の好きな子供は、地理の知識を母語を通して増やすことが出来るかもしれない。枚挙に暇はない。
母語を外国語に置き換えてみよう。子供に外国語の応用をさせることのできる親や家庭、学校などは限られてくるだろう。
もう、ここまで書けば、僕の言おうとしていることはわかってもらえるかと思う。そんな、ややこしいことはどうでもいいという人は無視してください。
良い外国語を身につけようと思うときに近道はない、ヒトや参考書に頼る必要はない。これだけ、外国語学習サイトがあると、その人なりの勉強法を身につける、探すことが既に目指す言語への第一歩になっているのかもしれない。
そんなコトを考えた。
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