私の両親はお茶をやっている。私も、母の手伝いをするためお茶をやることになり30年以上。さぼりさぼりやって来たので、私のお茶の深さはやっている年数に比例せず、恥ずかしいばかりである。
昨日、勉強のため母が行くお茶事にお供させてもらった。母のお付き合いする方は、優雅な生活をしている方が多い。昨日も由緒ある大きなお寺の奥様の八十才のお祝いのお茶事だった。
普通の人が想像するお茶会と言うのは、大寄せの茶会と言って、広いところへたくさんの方が来てお茶をいただく。
一方、茶事と言うのは本来のお茶の形で、お客様の数は少なければ数人、多くても8人くらいだろう。濃茶一服をお客様に差し上げるため、約4時間かけて懐石料理、薄茶をふるまう。
本当はお茶の稽古とは、この茶事をやるための稽古である。だから茶事をやらなければ本当のお茶の楽しさはわからないのだが、茶事をするにはお金も時間も体力もかかる。
亭主(茶事をする人)は、まず数ヶ月前から、趣向に合わせて道具の組み合わせを考える。場合によっては数年から数十年かけて少しずつ道具をそろえていく。
そして、お呼びするお客様の組み合わせや日程を考え、巻紙に筆で、何の茶事か、日程と連客の名前などを書いて送る。
庭の手入れ、畳替え、使う道具に不備が無いか、雨だったら露地傘(竹の皮で作った直径80センチくらいの傘)や露地下駄の準備、炭を洗ったり、手伝いの人を頼んだり、懐石の料理の打ち合わせなど忙しい。炉で使う灰は、数カ月から数年かけてちょうど良い色にしたりして準備する。忙しいというより、本当に大変なのだ。
何より大変なのは、床の間に飾る花だ。当日にこれを使いたいと思っても、天気によってその花が咲くか、その照り葉がいい色になって使えるか、それは神頼みしかない。
とにかく、亭主は字のごとく、地を走り回って準備を整え、一服の濃茶をご馳走するのである。
茶事当日も、お客のタイミングに合わせて炉の炭や、煙草盆の炭がちょうどよい状態になるよう考えなくてはならない。湯が沸く時間、そのための炭の入れ方も計算しなくてはならない。
露地の濡れ具合も、濡れ過ぎていないよう、乾きすぎていないよう、お客が通る時間を考え、量と時間を考えて水をまかなければならない。
もちろん、懐石料理も、お客の行動のタイミングに合わせて温めたり焼いたりする。
全てが、必要な時に最高の状態になるよう心を砕く。
昨日伺ったお宅は、身支度をする寄りつきという部屋には、さりげなく狩野探幽の軸。廊下には狩野派の屏風。
茶室の床の間には利休の手紙を軸に仕立てたもの。茶碗などの道具も利休の孫やひ孫の時代物。つまり、1600年代後半の物である。釜は室町時代の物。まあ、とにかく、美術館にあっても不思議ではない物が続々と使われる。
お茶事の楽しみとは、庭の風情、お茶やお菓子、料理を味わう楽しみもあるけれど、こういう物で実際にお茶をいただけることである。それらの道具を手に取ることによって、自分が、利休やその頃の人物と、今この時間を共有することができるのだ。自分の存在が、長く続いている歴史の一部だと感じる一瞬である。
先日、私の両親が伺った大寄せの茶会はもっとすごかった。使われた茶碗が、織田信長所有、その後加藤清正など有名な大名(名前を忘れてしまった。)を何人か経て前田利家所有となった茶碗だった。他の道具も徳川家康など、戦国時代の有名な大名が所有していた物がいくつもあったそうだ。
ああ、やっぱりお金が無いとこういうお茶はできないよね。
お金が無いとお茶ができないというわけではないけれど、やっぱりこういうお茶事に行くと、お金があるって凄いなあ、とちょっと羨ましくなる。
でも、ま、分相応に生きる、これも大事なことだしね。
何より、お茶は一人ではできない。一緒にお茶を楽しめる仲間がいる、こちらの方が名物の道具より大切なことだよね。
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