昭和の最後の頃、当時、人材派遣会社なるものが次々にできた。
私はそのうちの数社にワープロオペレータとして登録していて、とても面倒見の良いそのうちの1社から、ある有名なアメリカの製薬会社の小さな研究所に派遣されて働いていた。私がいたのは、薬の特許に関する部署で、部長と2名の社員がいる部屋だった。
その研究所は女子社員は少なく、10名ほどだった。その研究所で働き始めて数日後、仲が良くなった女子社員の一人、Aさんが、「おいで、おいで」と呼ぶので、ついて行った。はじめていく奥の部屋の隅っこに、人が何人か集まっていた。皆、知らない顔だった。
そのうちの一人が私に向かって、
「いいもの見せてあげる。ほら、これ。」
と言って、デスクの上の、角が少し丸い感じの長方形の物を指さした。ちょうど、片手に入るくらいの大きさだった。そこからはコードが出ていて、近くのパソコンにつながっている。集まっているみんなの話題は、その小さな四角い物らしい。
「え?なんですか、これ。なんか、ネズミみたい。尻尾もあるし。」
と、私が笑うと、
「これ、ホントにネズミなんだよ。」
と、その人も笑って言う。
「え?」
「あのね、マウスっていうんだよ。」
と言う。
私は笑って、
「やだー。からかわないで下さいよ。」
と言うと、
「本当にマウスって言うんだよ。」
と、その人は大笑いした。
それが本当にマウスと言う物だとと知ったのは、それから何日たってからの事だった。その時は本当にからかわれていると思った。それが、私が初めてマウスを見た時の事だ。
数日後、私ははじめて、パソコンなるもの使って仕事をするように室長に言われた。そのパソコンにはかじりかけのリンゴのマークがついていて、あのマウスがついていた。
「あ、これ、この前見せてもらいました。マウスって言うって言ってましたけど。」
「そうだよ。」
と、その部屋の一番若い社員の人が言った。彼は私より一つ上だった。
「このリンゴかわいいですね。誰かがかじってある。」
と、私が言うと、その人が、
「うん。可愛いでしょ。マッキントッシュっていうんだよ。マックって呼んでるけどね。」
と、教えてくれた。
そのかじりかけのリンゴがやけに可愛くて印象に残った。
「でね、あーすさん。これをやって欲しいんだけど。使い方は、誰かに教わってください。」
渡されたのは、六角形に手足が出て謎の物質を表すアルファベットが長~く書かれている複雑な化学式がたくさん切り張りしてある書類だった。
は・・・・・?あの・・・・・?これをやるんですか?私、初めてなんですけど。なんにもわからないんですけど・・・・。誰かに教わるって・・・・誰に?
私は女子のロッカールームでその話をしたら、AさんとBさんがマックの使い方を教えてくれると言ってくれた。そして少し暇な時間ができると、私がいる部屋にやってきてマックの使い方を教えてくれた。
数日後、一人で四苦八苦しながら六角形の化学式を入力していると、突然爆弾マークが!ああ!
すぐにAさんの所に飛んで行った。
「あのね、爆弾が出てきて、画面が動かないの!」
「ああ、出ちゃった?あれ、すぐ出るの。ま、諦めて最初からやるしかないわね。」
と、軽く言われてしまった。
がーん・・・・・。
それから何十回となく、その爆弾マークにやられた。残業して、もう少しですべて化学式の入力が終わる、という時にも爆発!ああ、大変だった。
スティーブ・ジョブズ氏死去のニュースで今までのマックのパソコンがテレビに映った。
「あ、これ。派遣の時に使ってたやつ。こんな形だった。」
と、私が言うと、夫が
「カラーだった?白黒だった?」
と尋ねた。
「白黒だった。」と言うと、
「じゃあ、マッキントッシュプラスかな。」と言う。
「私、あの時、初めてマウスを見たんだよ。リンゴがかじりかけっていうのもすごく新鮮だった。」
こんなことを言っても、平成生まれの娘には通じない。パソコンの無い時代を知らないのだから。
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