娘の毛蟹は鉄子である。
高三のある日、大好きな東武日光線に(開業記念日だからと勉強をほっぽり出して)乗りに行った。
一両目の運転席の見える窓に張り付きたかったが、そこには小学3年生くらいの子がいたので、斜め後ろのドアに立って運転席をのぞいていた。
しかし、そこからは運転している様子は見えない。運転席の一部が少し見えるだけだ。でも、鉄子にはそんなことはたいした問題ではない。脳内運転席がある。
電車が出発する。
「ATSよし!ブザーよし!出発、進行!」
毛蟹はつぶやきながら、脳内運転席ハンドルをゆっくりと動かしてゆく。だんだんスピードが出てきた。ああ、快適~。
さあ、もうすぐ次の駅だ。
毛蟹は再びつぶやきながら、ハンドルをゆっくりと回して速度を落としてゆく。
停車ブザー(なるボタンがあるらしい)を押し、
「停車よし。場内進行!知らせ灯、滅!」
プシューと音を立て、ドアが開いていく。
フフ、楽し~い❤
あぁでも、目の前で運転手さんの動作が見れたらもっと楽しいのになぁ…
ドアが閉まり再び電車が動き出した。
手はもうほとんど無意識にブレーキを緩め、マスコン(速度を調節する制御器)を入れている。
と、その時、
「あの…」
急に声をかけられた。
見れば先ほど運転席に張り付いていた男の子だ。
「はい?」
なんの用だろうかと首をかしげる毛蟹。
「僕、次の駅で降りるから、ここどうぞ…」
俯き気味で、恥ずかしそうに言う。
毛蟹は一瞬、は?となるも、彼に譲られたのだと気づいて顔を赤くした。
は、恥ずかしい… こんな小学生の男の子にまで気を遣わせてしまった自分がとてつも無く恥ずかしい…
そういえば、この男の子、何度か毛蟹を振り返って見ていた。自分がここにいるから、この変なお姉さんが、可哀そうに、あそこでエアー運転してるんだなって思ったに違いない。
現実に戻ってみると、心なしか、周囲の目が冷たいような気もする。
(もっとも、先程から運転席の窓を見つめ、怪しい動作をしている毛蟹を、周囲は、「え、変な人…」と思っていないはずがないが。)
とりあえず彼女はお礼を言い、少年が席に着いたのを確認してからその窓の前に立った。
窓の向こうでは運転手さんが信号を指差確認している。
か、カッコいい…
思わず真似しながら、気付けば夢中で同じ動作をしていた。背中に突き刺さる冷たい視線など、鉄子の背中ははじき返す。
―次は○○~○○~。お降りのお客様は…
あれ?いつの間にかこんなに時間がたってたんだ。夢中で全然気づかなかった。
毛蟹に場所を譲ってくれた少年は…当然ながらいなかった。
ああ。私、一緒に乗り合わせていなくてよかった。あ・・・・。でも、もし夫と毛蟹が二人で乗っていたら、二人で指さし確認していた・・・・?
。
注
今回の日記は、毛蟹監修のもと書かれました。
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