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文法の例外細目と関係副詞that(1)
本当は1回で上げたかった内容である。しかし内容を複数回に分けることにした。(全5回になった)
全ては、膨大な説明になりそうだし、1度では読むほうもつらいだろうと思ったので。
(そもそも書き終らなかった、という理由もある)
では
文法の例外細目と関係副詞that(1)
毎週更新している「私の文法ブログ」の前回
関係詞とカン・その1(解答編)
http://q-eng.com/diary/2125
のコメントで、思いもよらないものが話題となった。
それは関係副詞のthatである。
いただいたコメントの趣旨は
「関係副詞のthatは、出現頻度の低い例外細目。普通は教わらないほうが多い。教わるほうは可哀想。だからできれば教えないほうがよいのでは?」
といったものであった。
実は、これに対する私の本音は「なぜ?」の一言である。
なぜ「なぜ?」と思うのか? これを説明したい。
この結論に達するまでには、長い理由の説明が必要だと思う。
以下のような内容の説明する予定である。
(0)文法の例外細目は教えるべきか?
(1)たとえ話:掛け算オリンピックと九九
(2)英語が苦手な人の発想と得意な人の発想の違い
a. どこで嫌いになるか編
b. 何が嫌いか、何が好きか編(英語らしいものが嫌い)
c. 苦手な人の発想…「○をもらえればよい」
d. 得意な人にとっての関係副詞that編
e. 細かさ編(苦手な人は細かいかどうかが分からない)
f. 英語が苦手な人が、どうしても気になる部分(必死さの表れ)
g. 「可哀想」の比較編
h. 関係詞編
i. 関係詞穴埋め編
j. 苦手な人にとっての関係副詞that編
たった1回教わっただけなのに今に至って覚えている
k. 関係詞の基本問題とthat
l. 上智短大の問題
m. センターで問われたある関係副詞の問題
n. 可哀想か可哀想でないか?
(以上はあくまで予定である。変更するかもしれない)
今日は(2)の b までを説明する。
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(0)文法の例外細目は教えるべきか?
多くの意見は
・少なくとも最初は基本を教え、その後(それを踏まえた)応用を教えるべきである
・例外細目は重要でなければ教えるべきではない。
というものになるであろう。
これには私も原則同意する。
関係詞つながりの例を出そう。関係詞には「関係形容詞」という文法がある。関係形容詞はwhatとwhichとwhateverとwhicheverの4種があるが、私が関係詞全体を教える場合、通常教えるの関係形容詞はwhatのみである。なぜなら、他の関係形容詞は本当にあまり見かけないと「私」が思うからである。
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(1)たとえ話:掛け算オリンピックと九九
『たとえ話』をしたい。
世の中には数学オリンピックなるものがあるが、仮に
「掛け算オリンピック」なるものがある、とする。
・世界中の小学生2年生が義務で受ける、とする
・40点以下の生徒には、膨大な宿題が出されてとても困る状況になる、とする。
・あなたは「算数が大嫌いな小学生」だとする。(もしかするそういう小学校時代をすごした人がここを見ている人にも多いかもしれない)
・正直「九九が大の苦手」だとする。(実際そうだった人がいるかもしれない)
・でも「義務」で受けなければならない、とする。
・宿題を課される40点以下にはどうしてもなりたくない、とする。
・でも今のままなら、20点も取れないぐらいだとする。
ここで、算数好きな先生や友達が↓こう言ったとする。
「インドの小学生は九九どころか、22×20を覚えるんだ。
http://www.indo.to/asano/HBIndia/Culture/HBM-04.html
「時間制限がある掛け算オリンピック」で高得点を取るためには九九ではなく、22×20を覚えよう。できなくはないよ。インド人はみんなやってるんだから」…と言われたとする。
・あなたは「22×20」を覚えたくなるだろうか? 覚えようとするだろうか?
しないはずだ!
九九を覚えるだけで精一杯のあなたなら!
・確かに九九だけでは「時間制限がある掛け算オリンピック」で高得点は難しいかもしれない。
・しかし九九だけちゃんと覚えていれば、筆算で11×13だって解けるではないか! 時間はかかるかもしれないが。
⇒だから、あなたは九九しか覚えないはずである。
現在九九があやふやなあなたはそれで精一杯のはずだ。
それに、たとえ11×13が出題されても、筆算で正解が出せるだろう。
それで十分40点以上取れるのならば、それで良いではないか!
違うだろうか? それとも「どうせなら「22×20」を覚えて世界一を目指そう!」とでもするだろうか?
ちなみに私がもし「掛け算オリンピック」に参加しなければならない小学生であったら、どうすると皆様はお思いになるだろうか?
私なら当たり前のように「22×20」を覚えたくなり 覚えるだろう。
信じてもらえるだろうか? そこの算数嫌いな皆様。
しかし私なら「22×20」を絶対にすぐさま覚える。
なぜなら私は当時掛け算が大の得意だったからである。九九が楽勝でできてしまうからである。
これは「自慢」で言う。
私は小学校に入る前から九九が完璧にできた。
小学校当時、九九ができない困っている友達が多くて不思議だった。
私は算数が大好きだった!「九九はできて当たり前」だった。
だから喜んで「22×20」を覚えるだろう。
算数が大好きだった私は、「算数博士」みたいな人間になりたかった。
だから、もし「22×20」を覚えられたら、「算数博士」にでもなった気分になり、満悦な気分を楽しんだことだろう。
…この話を後で引き合いに出す。
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(2)英語が苦手な人の発想と得意な人の発想の違い
a. どこで嫌いになるか編
世の中には英語が嫌いな人は大勢いる。私もその1人だ。
私が常々不思議に思うことがある。それは
「英語好きな人」は、「英語嫌いな人はどこでどう英語が嫌いになるのか?」を分かっていないことである。
英語嫌いが英語が嫌いになる主な原因にはいくつかの要素がある。その大きな一つは「テストで良い点数が取れなかったから」である。これが最大の理由である。
それは「算数と取り替えれば」分かる。
算数嫌い(だった)人に問う。あなたはなぜ算数が嫌い(だった)?
原因は「成績」の悪さ(だった)はずだ。
あなたは算数の成績が抜群に良かったのに、算数が嫌いだった?
違うはずだ。
算数の成績が抜群に悪かったから、算数が嫌いになったはずだ。
それこそ、九九などに苦労しなかっだろうか? 分数の計算はスラスラ解けた?
算数のドリルで居残りさせられた経験はないだろうか?
算数と聞いただけで、嫌な思い出が浮かぶのではないだろうか?
つまり
「算数の問題に苦しんだ上、さらに解けなくて、成績が悪かった」
だから⇒「算数が嫌いになった」はずである。
●英語嫌いの原因も同じである。
原因は「成績」の悪さである!
英語の成績が抜群に悪かったから、英語が嫌いになったのだ。
「英語の問題に苦しんだ上、さらに解けなくて、成績が悪かった」
だから⇒「英語が嫌いになった」のである。
中学の時、私が最初に受けた英語のテストの点数は、100点満点で12点である。
http://juken.alc.co.jp/mouthbird/archives/2006/07/post_209.html
高1のとき平均点が87点の英語のテストで、私は7点だったこともある。学年最低点だった。
http://juken.alc.co.jp/mouthbird/archives/2006/08/post_222.html
中学時代、私は英語の所為で好きな部活を休部させられた。それは英語の成績があまりに悪かったからだ。担任の教師に『部活の時間を英語の勉強に当てろ!』と言われたのだ。
また、大好きだった数学の勉強時間も英語に当てた。おかげで数学の成績が赤点を取るくらいにまで下がった。
それでも高一の英語の成績は学年最低点だった。
やっても、やっても上らない英語の成績。それなのに友人や先生からは「勉強してないだけでしょ? なんでやらないの?」と言われるまくる生活だった。
英語教師と友人に馬鹿にされまくった中学高校の6年間の生活だ。英語は私の青春の全てを奪った。
だから、私は英語が大嫌いになったのだ。友達と比較して極端に悪い「成績」の所為で英語が嫌いになったのある。
彼ら(英語好きな人たち)から一番言われるのは「英語嫌いが英語が嫌いになる理由」は「難しい文法の所為だ!」という意見である。英語好きな人は文法が嫌いな人が多いのだ。それを「英語嫌いな人にも当てはめてしまう」のだ。
冗談ではない。実際は真逆である。
英語好きな人は、「文法を考えるのが嫌い」で「文法を考えたがらない」人が多い。
しかし
英語が嫌いな人が「英語を勉強しよう!」と思い立ったとき、「文法を考えたがる」のである。
↓(証明&説明)
http://juken.alc.co.jp/mouthbird/archives/2008/03/post_445.html
もちろん、私は中学高校時代に英語の先生から「文法の大事さ」など強調された覚えはない。
中学ではネイティブの発音の素晴しさなどを強調された。↓参考。
http://juken.alc.co.jp/mouthbird/archives/2006/08/post_214.html
高校では、暗誦ばかり強制された。↓
http://juken.alc.co.jp/mouthbird/archives/2006/08/post_223.html
その結果、ますます英語が嫌いになった。
その結果私は、おそらく世界で1番英語嫌いな人間になった。
私は、英語好きと思われる人から「英語嫌いが英語が嫌いになる主な理由は成績の悪さ所為である」とズバッと言われた経験がない。
だから「英語好きな人」は、「英語嫌いな人はどこでどう英語が嫌いになるのか?」を全く分かっていない、と私は思っているのである。
何度でも言う。
「英語嫌いが英語が嫌いになる主な理由は成績の悪さの所為である」
英語の成績が良くなったら、1点でも多くテストで点が取れたら、0.1でも英語の偏差値が良くなったら、、、、、その分だけ英語が好きになる可能性が増えるのである。
絶対に文法の所為ではない。まして例外的な文法の所為でもない。
***
b. 何が嫌いか、何が好きか編
嫌いになると、おもしろい現象が起こる。
例えば、英語嫌いな人は『英語らしさ』が嫌いになる。
算数・数学嫌いな人は『算数・数学らしさ』が嫌いになる。
私のアルクのサイトの↓このページを見て欲しい。
http://juken.alc.co.jp/mouthbird/archives/2005/07/post_6.html
算数・数学嫌いな人は↑の『数学の問題』を一瞬で目をそらしたはずである。
なぜそらしたか?
数学嫌いなあなたは「方程式の羅列を見たくなかったから」のはずである。
数学嫌いなあなたは、「方程式」みたいな『算数・数学らしさ』が嫌なはずだ。
だから、見たくない、見れない、⇒見なかった
となったはずだ。
英語嫌いも同じである。
英語嫌いは、アルファベットの羅列を見ない。
英語嫌いは、「アルファベット」みたいな『英語らしさ』が嫌なのだ。(仮にフランス語で書いてあったとしても、アルファベットなので、目を背けただろう)
だから、見たくない、見れない、⇒見なかった
となったのだ。
逆に、
英語好きは、喜んで英語を見て内容を吟味したはずである。
算数・数学好きは、喜んで数学の問題を見て内容を吟味したはずである。
今回は英語だったが、これが英語好きな人は、書かれたアルファベットがたとえフランス語でも、読もうとしたはずである。好きなほうの「らしさ」を喜ぶのである。
ここで強調したいのは
「嫌いなほうの「らしさ」には目を背ける」
「好きなほうは「らしさ」に飛びつく」
という2つである。 ここに関係副詞thatがあとで絡んでくる。
ここまでよいだろうか?
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続きは明日である。
(関係ないが、今日は誕生日であった。オタク仲間で誕生会を開きまして、美少女フィギュアなどをいただきましたww ^^)