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mouthbirdさんの日記

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2013年
01月13日
03:05 mouthbirdさん

体罰問題を考えた

  • その他
体罰で自殺した高2の学生について


この問題について、4つの要素を考える。
(1)体罰の効能
(2)強くなるのに体罰は必要か?
(3)体罰を行う指導者の考え方
(4)隠蔽:虚偽報告


(1)体罰の効能
 私も運動部出身者であったが、体罰はなかった。もっとも空手部だったので、年がら年中殴りっこしていたようなものだったが。
代わりにいわゆる「しごき」はかすかにあった。到底できないような量の筋肉トレーニングをさせられるケースである。しかしそのしごきもほとんど無いに等しかった。私は部内でも非力の方であったが、与えられたメニューが限度以上だと思ったことは無かった。
ただし、限度内ではあるもののキツくはあった。だが強くなるには当然だと思っていた。自分で選んだ部活である。これくらいは覚悟していた。

事件の合った学校では、指導者擁護の声が上がったという。
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20130110-000...

私が思うに、体罰は手っ取り早い指導法なのだ。与えられた課題ができなかった場合、罰として体罰を受ける場合を考えよう。生徒は体罰が嫌ならなんとしても課題をこなさなけれならなくなる。だからどうしても課題をやらざるを得ない。その結果、強くなることは十分ありえることである。ただし「だからと言って体罰は容認できるかどうかは別」であると思う。


(2)強くなるのに体罰は必要か?
まず「必要」という定義を確認したい。「必ず要る」という意味だ。つまりもし体罰が必要なのが正しければ、体罰がなければ強くならないはず・強いチームは体罰だらけのはずである。そうであろうか? 実際は体罰がなくても強いチームはあるはずだ。そういうチームは別の方法で鍛えて強くなっているはず。つまり、ほかの方法を考えず、手っ取り早く「体罰」を行うところが問題と思う。


(3)体罰を行う指導者の考え方
ここはさらに2つに分割する。
●1つめ。指導者が「痛めつけたい性格」の場合。
世の中にはサディストがいる。他人を痛めつけて快感を覚えるタイプの人間である。このタイプが指導者の場合「強くするため」と称して必要以上に体罰をするケースがある。この教師がこれに該当するのであれば、それだけで大いに問題である。
●2つめ。手っ取り早く「体罰」で生徒を煽り、効果を上げる場合。
この高校の部活は体罰があってしかもそれなりに実績もある。であるならばこの指導者の「体罰」の効能が0であるとは言えないであろう。だからこそ保護者から指導者擁護の声が上がったのである。
そして、少なくとも指導者自身も「自分の体罰指導のおかげでこの部は強くなった」と自負しているようだ。

(4)隠蔽:虚偽報告
私がおかしいと思うのはこの辺である。
指導者は「体罰指導は強くなるのに必要」と主張している。ではなぜ調査の時に「体罰はしていない」と報告したのだろうか?
要するに、この指導者は「体罰は必要と考えながら、隠さないと不味い」と思っているわけだ。
ここが大いに問題だと思う。教育者が虚偽をしていいはずがない。


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ここからは私の意見である。

★まず体罰の「必要」性について。「必要」ではない。事実、体罰なしで強くなっている高校の部活はあるはずである。強くするにあたり、体罰以外の方法はいくらでもあるはずである。この指導者は「その方法の探求を怠り、手っ取り早く手をあげた」という具合であろう。つまり「考えていない」のである。


★体罰は有効であるかどうか、、、実際、結果的に有効な生徒は0ではなかろう。少なくとも保護者からそのような声が上がっている。しかし、自殺した生徒に対しては有効であったのか? 無効であったことは明白である。有効なら自殺はしない。
 つまり「体罰は万人に有効手段ではない」…ということである。

 昔、オウム真理教の麻原彰晃が薬事法違反で捕まった時の言い訳を思いだした。非合法な薬を売って捕まったのである。
 麻原はテレビでこう言い訳をしていた
 「確かに私が売った薬で健康を害した人がいたかもしれない。しかし健康になった人もいるんだ。その人たちはどうなんだ? 彼らは私に感謝しているのに」
 私にはこう思った。
  ⇒「麻原は自分が健康を害した人のことを全く考えていない。被害者への謝罪すらしない。自分への批判は認めず賞賛のみを欲しがる」(だからあんな事件を平気で起こしたのである)
 これとこの体罰教師の考え方は似ていないか?

 つまり、以下の2つが言えると思う。
  ・●体罰教育のせいで能力を上げる生徒も0ではないのかもしれない。しかし体罰が全く効力を発揮しない人がいるのも明らかだ。効力が全くない上、悪影響しか残らない人もいることをこの指導者は全く考えていない。悪いとは思わず、良いと思ってやっている。別の指導法もあってそっちのほうがいいかもしれないとは思わなかった。
  ●この指導者は、効力があった方法(=体罰)を「万人に適用できる」と考えたため、効力がない人にも押し付けた。その結果、最悪な不幸な結果になった。違うだろうか?
  この2つが大いに問題であると私は思う。

  先生は指導法を選べる。にもかわらす体罰教師はそれを怠ったのが問題ではあるまいか?
  高校の場合、生徒は先生を選べないのだ!



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ちなみにだ…

 ・私の英語の教え方は、得意な人と苦手な人とでは「全く異なる」。
  得意な人には文法はあまりやらせない。
  苦手な人には文法をみっちりやらせる。

 なぜそうするかと言うと⇒私は「文法が万人に必要とは思っていない」からである。
 「文法は苦手な人ほど必要、得意になればなるほど必要度が減り、全く必要のない人もいる」…というのが私の意見である。

 指導者は「指導法に多種多様な選択肢を用意」すべきではないかと思っている。
 生徒AにはAに合う方法、生徒BにはBに合う方法があるはず。それを見つけて合う方法を教えるべきと思っている。
 しかし 指導者の多くは「自分の指導法はAにもBにも誰にでも合うはずだ」と思い込んでしまう傾向があるように思う。これが危険だと私は思う。


ちなみにだ…

 ・私の中学高校時代、確かに部活には体罰はなかったが、「英語の授業」では体罰はあった。
   英語の小テストの成績が悪いと先生に平手打ちをされた。(毎回悪かったので毎回平手打ちされた)
   高校の頃は酷い成績を取った時などは、よく竹刀で尻を叩かれものだ。(こっちも同じ。私は(中学もだが)高校時代英語は毎回落第点であった)

  体罰の効力? そんなもの私には全くなかった。ただただ怖かった。
  英語嫌いの度合いを強めただけで、全く成績に響かなかった。

  あそうか、だから効力はあったのか。
 つまり
  「英語ってできないと体罰を受けなければならいほど重要なのか? その割には使えない日本人が圧倒的に多いのはなぜなんだ? おかしいじゃないか! お前には日本人の大多数が英語を必要としてみんな毎日ガツガツ英語を使っているように見えるのか?」と私に思わせる効力。
  ⇒その結果、私は英語が得意になった今でも「英語を大嫌いなままにする効力」
    …これらはあったと言えるだろう。
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コメント

1番~5番を表示

2013年
01月13日
08:03
たっつんさん

 全体的にも詳細についても異論はないですね。
 体罰は簡単なんですよね。本質的には恐怖政治と同じですよね。
 体罰そのものも問題ですけど、その結果に至るまでの経緯と彼らの、あるいは私たちの、日本社会全体の構成や思想背景を考えると、問題の根っこは深いと思いますね。

 アメリカが本格的に銃問題に取り組む今、彼らの自主防衛っていうアイデンティティにも近い根本的な信念、社会構造を問いただすのと同じで、日本の体罰問題はある種、日本の社会構造そのものに問題があると思います。
 つまり、「体罰したら→自殺した」っていう問題として目に見える形で表面化しただけであって、日常的にはこの類の指導、圧政、悪政はどこの学校、企業でも行われている、ということです。

 指導やリードする立場にあるはずの人間が一番リーダーシップやコーチングについて学んでいない。きっと今の20代、30代、40代のほうが「どうしてこんなことになるんだろう? 組織にとってあるべきリーダー像ってなんだろう?」と必死に考えて勉強していると思います。残念ながら!

 学校教育について、具体的に事例をあげるなら、実際私の中学であったことを挙げてみます。ある日、他のクラスの生徒の喫煙が発覚し、連帯責任でクラスの男全員坊主にするか否かっていう議題がなぜかうちのクラスで出ました。
 どっちに加担したかは忘れましたが、「喫煙したから坊主」という罰則も何か理屈が通っているようで通ってないんですよね。
 喫煙したから体罰、でも同じです。表面的には反省できます。中学の先生は、それにより保護者及び周辺地域の支持や信頼を得られます。でも、それは問題の本質的解決にはなっていないですよね。

 大事なことは、「なぜ中学生の喫煙がいけないのか」を「法律だから」とかではなく、「理屈で理解してもらう」ことですよね(理解させるためには、その前にメンタル的なカウンセリングが必要だと思いますが…)。ここを大人は諦めちゃいけないと思うのです。
 
 体罰も同じです。
 実際、私も中高バスケ部ですし、こういう話はありました。私の学校でも重要なポジションにある選手は、プレーがまずいと倉庫裏に連れて行かれてました。。
 他校の先生は竹刀を試合にも持ち込み、試合中のプレーがまずいと、白昼堂々竹刀で選手の脚を打ってました。たしかに強い学校でした。

 そういった恐怖政治によって国民は政府の批判を表面的に止め、選手はきつかろうが何だろうが、勝つために苦しい試合を勝ち抜くでしょう。少なくとも、持てる限りの力を注ぎます。
 私のチームメートに「全国中学生選手権大会」出場経験のある先輩と同級生がいました。彼らは中学生の時、試合に負けると厳しい練習が待っていたそうです。トイレで小をすると、血が混ざるそうです。
 ただ、これは体罰とは言いきれないかも知れないです。ある種、こういう経験が試合時に平静さを保てる根拠や自信にもなっていることがあるからです。

 アメリカのエリート軍隊であるSEALsの入隊試験や日本の自衛隊、レンジャー隊の訓練は、とても理不尽な状況に隊員を追い込むそうです。それは戦場っていう理不尽な事が起きる現場で、つねに平静を保ち対応させるためだそうです。
 これに似ているかもしれません。「強さ」というものがある種、究極的にはこういうプロセスによって生まれる部分があることは否定できません。

 じゃあ例えばアメリカやイギリス、フランス、スペインなどのサッカークラブがこういうやり方をやっているか、っていうと違うと思いますけどね。だからやっぱり日本式なんですよね。
 やはりここでも大事なことは、選手自身から''自主的に''「勝ちたい」という気持ちを育て、''どうしたら勝てるのか''という思考を育てることだと思うのです。指導者が苦心して考えるべきはここです。体罰をする指導者は、思考するという答えのない問題に取り組むことから逃げているだけです。


 ーーー日本におけるの部活動は武道よろしく、なんでも「道」にして、教育の現場に持ち込まれます。「野球道」、「バスケットボール道」、「バレーボール道」…
 「これも教育だ」と彼ら指導者は言うのですが…、スポーツから学ぶことってそういうことなんでしょうか? これって何か、戦中の日本と変わっていない気がするんですよね。「我慢」とか「根性」とか…。
 もちろんそれが大事な時もあるとは思います。が、スポーツを通して学ぶことってそこ(だけ)じゃないと思うのです。
 スポーツにおける真剣勝負から学ぶことというのは、オリンピックの精神と同じだと思うのです。勝っても勝っても上がいる。挫折から学べることがあるし、それを克服して勝利することからも学べる。それがスポーツだと私は思うのです。

 スポーツは文化であり、教育ではないと私は思います。彼らはそれを混同しているし、その教育は教育じゃない。

ま、ここらへんは桑田さんが、ずばり主張されているので譲ります。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130111/k10014748731000....

 思うに今の50代、60代が育った環境、時代背景と20〜40代が育った環境、時代背景は全く違うので、そこに大きな価値観のギャップ、情報格差があると思うのです。もちろん元楽天監督である、野村監督のような方もいます。世間の優れた経営者、指導者というのはそういうものですし、彼らは絶えず学んでいます。

 ただ一般の彼ら年輩者が若いころの時勢というのは、理屈うんかんぬんっていう時代ではなかったですし、上位下達方式でやってきて、それで成功してきた時代でもあります。それは、それだけ社会構造が単純だったからだと思います。モノを作ってモノを売る。それだけで何とかなった時代です。当時の技術をボトムアップで積み上げていった成果をモノとして売っていればよかった。

 今は違います。
 いろんな要素、条件、環境が複雑に関連し、ちょっとやそっとでは理解できない社会構造になっています。モノ一つ売るにしても、何を、誰に、どうやって、売るのかを考える必要があります。「消え物」つまり、目に見えないサービスを売ることも多々あります。
 そこではコンサルティングに始まり、ペルソナ設定、ストラテジー、商品デザイン、コンセプト、マネージメント…と概念的な操作で溢れています。

 基礎的な形而上の概念的操作にすら年輩者は弱いです。そのくせ、育った時代背景のせいなのか勝ち負けにこだわります。「お山の大将」のノリでやっているようです。そこに結論は何もないのですが…。また、自分の居場所にも危機感を感じるのか「昔は…」と昔話を始め、私達を否定します。反論はもちろん許されません。
 もうこうなっちゃうとこちらとしては、「ぁあ、もうこの人も話が通じないんだな…」と諦めムード一色です。あと、この世代に共通するのが、キレれば自分の主張が通る、と思っているところです。もうここまで老害が進むと手の施しようが無いです。末期症状です。

 また私たちの世代は「失われた10年〜20年」を過ごし、さらにこれから日本がアジア各国に追いつかれ、追い抜かされていくという撤退戦を強いられる世代です。どこまで行っても負け組の世代なんです。そんな私達に、どっちが勝ったとか負けたとか、正しいとか間違っているとか、誰が名声を得ているとか、関係ないんです。

 やはり桑田さんの世代から下は、もうそういうかつての思想や姿勢が現代においては、うまく機能しないのも共通理解として持っていますし、うんざりしてる世代だと思います。彼ら一部の解せない年輩者とは価値観の接点がないというか…「文化が違う」んです。
 決定的な言い方をしてしまえば、彼ら年輩者には「メタ思考がない」んです。自分の思考を超えたところの思考について思考が及んでいないんです。
 経験値は確かに高いのです。その経験値と新しい世代の理論を合わせればいいものができると思っているのに、いつの間にか「知識の背比べ」になっていたりします。そこに焦点はないのに。。

 だから今の価値観についてこれず、旧態依然の、今まで自分がやってきたようなやり方しか正解にできない。桑田さんの「指導者だけが進化していない」の一言に尽きます。
 教育とか指導において大事なことは、機械的に解答を与えたり、「これをやってはいけない、あれをやってはいけない方式」でやるのではなく、「自主的に考えさせる」ことだと思います。これは、ソクラテスの指導方針でもあります。弟子に解答を与えるのではなく、質問をすることで考えさせる、その回答の論理に背く事例を挙げ論破し、また質問をする、そうやって正解に近づけたそうです。

 考えさせる指導方法は民主主義と同じで、正解にたどり着くまで時間はかかります。一方、体罰やファシズム、共産主義下で一意の方向に向かわせるのは簡単です。でもそれは真の正解、力にはならないですよね。

THIS IS WHY JAPAN SUCKS!

2013年
01月13日
17:34
popoyuriさん

考えていないから

先生の書いたこの理由に尽きると思うんです。

教えることを職業としていたことがありますが、練習させることと手を出すことは違います。絶対に。委縮させていいことはひとつもありません。
そして、団体を指導することと個人を指導することも違います。
どちらも楽ではありませんが、体罰は不要です。
多分、この学校の指導者は、考えて指導されたことが無いか、その立場になっても導くことの難しさを深く考えずに続けてしまったのではないかと思います。

サディストの話も出ましたが、一度手をあげて言うことをきかせてしまうと、それが手をあげた側の成功体験になってしまい、いけないことだとわかっていても止められなくなるというのも、児童虐待をする親・指導者でよく聞く話です。

弱くても勝てますという、開成高校の野球のやり方を本で読んだことがありますが、この指導者とは正反対の理詰めのやり方で面白いなぁと思うと同時に、これが本になるということは、ほとんどの学校はまだまだ体罰・大声での叱責の中にいるのかなぁとも思いました。

うまくできなくて、一番辛い・嫌なのは誰でしょう? 当の本人です。
罰を与えられなくても、充分に辛い思いをしているのです。
でも、やめないのはなぜでしょう?

殴った人には、ここを一番考えてほしかった。

小中高
たった1年年上なだけの先輩にすら口ごたえもできないこの年頃の生徒が、充分に大人であるこの指導者に向かって何ができるでしょう。
辞めたら部活ができない・友達付き合いが変わる・別の仲間が殴られる
どれをとってもいいことがありません。

それを充分わかった上で手をあげていたようにしか、一部報道からは受け取れないんですよねぇ。

そして、この人は学校でも古参で、校長よりも長くこの学校にいて、意見できる人が誰もいない状態だったとも聞きました。
だとしたら、どうしたらいいんだろう・・・。


先生の視点とはちょっとズレてしまいました。ごめんなさい。

2013年
01月13日
23:51
mouthbirdさん

>>1 たっつんさん

長文のお返事ありがとうございます。その割に短い返事になりますが、ご了承下さい。
体罰はいわばおっしゃるように「恐怖」になると思います。この意味での「威圧効果」は効能があると認めざるを得ないでしょう。ある意味「強さ」は必要と思います。それが体罰になると問題だと思います。
 桑田さんのご意見も素晴らしく思いました。「指導者が進化していない」、、、そのとおりだと思いました。

>>2 popoyuriさん
 そうですね。指導者は「考えていない」と思います。体罰が成功体験なので、それ以上を考えなくなってしまったのだと思います。「思考停止」というものですね。これは厄介で、自分が正しいと思うと、もうそれ以上聞く耳ももたず、その考えのみになってしまう。。。。
 ここの改善はおそらく相当難しいものだと思いました。
 なあに、私の周りでも、聞く耳がないご老人たちがたくさんいるもので…(;´д`)トホホ…
私も論点がずれたかもです。ゴメンナサイ^^

2013年
01月14日
10:45
hadaさん

体罰問題の裏には「優れたプレイヤー = 優れた指導者」という錯覚もあるんじゃないかな~なんて感じました。

指導する能力やノウハウもない人間が指導者になると、過去の自分の成功体験などから短絡的に罰を与えることで自分の理想の通りになるのではないか?と考えてしまう。そして残念なことにある程度はそれで成果が出てしまうんですよねえ。

英語の学習でもネイティブスピーカーに教えてもらったら、英語が得意な人に教えてもらったら…と考えてしまうのは同じ落し穴にはまっているのかもしれませんね。

2013年
01月15日
00:01
mouthbirdさん

>>4 hadaさん
プロ野球やゴルフ好きのお父さんなら、「優れたプレイヤー = 優れた指導者は錯覚」と思う人は多いかもしれません。特にゴルフは「レッスンプロ」という別カテゴリーがあり、プロゴルファーがレッスンプロに習うぐらいです。

つまり、この教師は<ノウハウらしいノウハウは「体罰しかない」ということになる>と思います。キャプテンを続けると言った生徒に、教師は「なら殴ってもええんやな?」と訪ねたらしいです。
 「キャプテン=殴られてもいい人」という発想です。仮に効果があるとしても、これがまともな人の発想には私には思えません。

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