体罰で自殺した高2の学生について
この問題について、4つの要素を考える。
(1)体罰の効能
(2)強くなるのに体罰は必要か?
(3)体罰を行う指導者の考え方
(4)隠蔽:虚偽報告
(1)体罰の効能
私も運動部出身者であったが、体罰はなかった。もっとも空手部だったので、年がら年中殴りっこしていたようなものだったが。
代わりにいわゆる「しごき」はかすかにあった。到底できないような量の筋肉トレーニングをさせられるケースである。しかしそのしごきもほとんど無いに等しかった。私は部内でも非力の方であったが、与えられたメニューが限度以上だと思ったことは無かった。
ただし、限度内ではあるもののキツくはあった。だが強くなるには当然だと思っていた。自分で選んだ部活である。これくらいは覚悟していた。
事件の合った学校では、指導者擁護の声が上がったという。
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20130110-000...
私が思うに、体罰は手っ取り早い指導法なのだ。与えられた課題ができなかった場合、罰として体罰を受ける場合を考えよう。生徒は体罰が嫌ならなんとしても課題をこなさなけれならなくなる。だからどうしても課題をやらざるを得ない。その結果、強くなることは十分ありえることである。ただし「
だからと言って体罰は容認できるかどうかは別」であると思う。
(2)強くなるのに体罰は必要か?
まず「必要」という定義を確認したい。「必ず要る」という意味だ。つまりもし体罰が必要なのが正しければ、体罰がなければ強くならないはず・強いチームは体罰だらけのはずである。そうであろうか? 実際は体罰がなくても強いチームはあるはずだ。そういうチームは別の方法で鍛えて強くなっているはず。つまり、ほかの方法を考えず、手っ取り早く「体罰」を行うところが問題と思う。
(3)体罰を行う指導者の考え方
ここはさらに2つに分割する。
●1つめ。指導者が「痛めつけたい性格」の場合。
世の中にはサディストがいる。他人を痛めつけて快感を覚えるタイプの人間である。このタイプが指導者の場合「強くするため」と称して必要以上に体罰をするケースがある。この教師がこれに該当するのであれば、それだけで大いに問題である。
●2つめ。手っ取り早く「体罰」で生徒を煽り、効果を上げる場合。
この高校の部活は体罰があってしかもそれなりに実績もある。であるならばこの指導者の「体罰」の効能が0であるとは言えないであろう。だからこそ保護者から指導者擁護の声が上がったのである。
そして、少なくとも指導者自身も「自分の体罰指導のおかげでこの部は強くなった」と自負しているようだ。
(4)隠蔽:虚偽報告
私がおかしいと思うのはこの辺である。
指導者は「体罰指導は強くなるのに必要」と主張している。ではなぜ調査の時に「体罰はしていない」と報告したのだろうか?
要するに、この指導者は「体罰は必要と考えながら、隠さないと不味い」と思っているわけだ。
ここが大いに問題だと思う。教育者が虚偽をしていいはずがない。
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ここからは私の意見である。
★まず体罰の「必要」性について。「必要」ではない。事実、体罰なしで強くなっている高校の部活はあるはずである。強くするにあたり、体罰以外の方法はいくらでもあるはずである。この指導者は「その方法の探求を怠り、手っ取り早く手をあげた」という具合であろう。つまり「考えていない」のである。
★体罰は有効であるかどうか、、、実際、結果的に有効な生徒は0ではなかろう。少なくとも保護者からそのような声が上がっている。しかし、自殺した生徒に対しては有効であったのか? 無効であったことは明白である。有効なら自殺はしない。
つまり「体罰は万人に有効手段ではない」…ということである。
昔、オウム真理教の麻原彰晃が薬事法違反で捕まった時の言い訳を思いだした。非合法な薬を売って捕まったのである。
麻原はテレビでこう言い訳をしていた
「確かに私が売った薬で健康を害した人がいたかもしれない。しかし健康になった人もいるんだ。その人たちはどうなんだ? 彼らは私に感謝しているのに」
私にはこう思った。
⇒「麻原は自分が健康を害した人のことを全く考えていない。被害者への謝罪すらしない。自分への批判は認めず賞賛のみを欲しがる」(だからあんな事件を平気で起こしたのである)
これとこの体罰教師の考え方は似ていないか?
つまり、以下の2つが言えると思う。
・●体罰教育のせいで能力を上げる生徒も0ではないのかもしれない。しかし体罰が全く効力を発揮しない人がいるのも明らかだ。効力が全くない上、悪影響しか残らない人もいることをこの指導者は全く考えていない。悪いとは思わず、良いと思ってやっている。別の指導法もあってそっちのほうがいいかもしれないとは思わなかった。
●この指導者は、効力があった方法(=体罰)を「万人に適用できる」と考えたため、効力がない人にも押し付けた。その結果、最悪な不幸な結果になった。違うだろうか?
この2つが大いに問題であると私は思う。
先生は指導法を選べる。にもかわらす体罰教師はそれを怠ったのが問題ではあるまいか?
高校の場合、生徒は先生を選べないのだ!
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ちなみにだ…
・私の英語の教え方は、得意な人と苦手な人とでは「全く異なる」。
得意な人には文法はあまりやらせない。
苦手な人には文法をみっちりやらせる。
なぜそうするかと言うと⇒私は「文法が万人に必要とは思っていない」からである。
「文法は苦手な人ほど必要、得意になればなるほど必要度が減り、全く必要のない人もいる」…というのが私の意見である。
指導者は「指導法に多種多様な選択肢を用意」すべきではないかと思っている。
生徒AにはAに合う方法、生徒BにはBに合う方法があるはず。それを見つけて合う方法を教えるべきと思っている。
しかし 指導者の多くは「自分の指導法はAにもBにも誰にでも合うはずだ」と思い込んでしまう傾向があるように思う。これが危険だと私は思う。
ちなみにだ…
・私の中学高校時代、確かに部活には体罰はなかったが、
「英語の授業」では体罰はあった。
英語の小テストの成績が悪いと先生に平手打ちをされた。(毎回悪かったので毎回平手打ちされた)
高校の頃は酷い成績を取った時などは、よく竹刀で尻を叩かれものだ。(こっちも同じ。私は(中学もだが)高校時代英語は毎回落第点であった)
体罰の効力? そんなもの私には全くなかった。ただただ怖かった。
英語嫌いの度合いを強めただけで、全く成績に響かなかった。
あそうか、だから効力はあったのか。
つまり
「英語ってできないと体罰を受けなければならいほど重要なのか? その割には使えない日本人が圧倒的に多いのはなぜなんだ? おかしいじゃないか! お前には日本人の大多数が英語を必要としてみんな毎日ガツガツ英語を使っているように見えるのか?」と私に思わせる効力。
⇒その結果、私は英語が得意になった今でも「英語を大嫌いなままにする効力」
…これらはあったと言えるだろう。
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