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「英文の意味の疑問」の質問

2011年
05月27日
00:23
たっつんさん
たっつんさん

求む精訳! 哲学者、Martin Heideggerの言葉

日記にも掲載したのですが、みなさんに是非とも精訳を施して頂きたく、ここにも掲載したいと思います。こまかい前置きは日記に書いているので、以下の英文が
「何が言いたいのかわからない。」
という方、稚拙な解説ですが、解説っぽいものを記述したので参考にしてください。

日記:「求む精訳! 哲学者、Martin Heideggerの言葉」
http://q-eng.com/diary/6377

以下、英訳原文です。

“The interpretation of something as something is essentially grounded in fore-having, fore-sight, and fore-conceptions. Interpretation is never a presuppositionless grasping of something previously given. When the particular concretion of the interpretation in the sense of exact text interpretation likes to appeal to what"is there", what is initially "there" is nothing else than the self-evident, undisputed prejudice of the interpreter, which is necessarily there in each point of departure of the interpretation as what is already "posited" with interpretation as such, that is , pre-given with fore-having, fore-sight, fore-conception"

―Heidegger "Being and Time"


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以下は私の拙訳と、受験英語で身につけた文型解読技術を使用して、文構造を読み解いたものです。

// ... 主部を示す。
/ ... 副詞句などを示す。
(blah blah blah) ... 前出の言葉への修飾関係をしめす。
<word> ... 主に副詞、その他、状況に応じて挿入句を示す。
 
“The interpretation (of something as something)// is <essentially> grounded /in fore-having, fore-sight, and fore-conceptions.
 ある何かをある何かとして識別する解釈は、本質的には当人が予め体験し、見出し、理解した概念に基づいてる。


Interpretation is never a presuppositionless grasping (of something previously given).
 解釈とは、事前に与えられた、物事に対する前提条件的な理解なしには存在し得ないものである。
[つまり何らかの解釈、予備知識があって、それに基づいて、新しい概念の理解が積層されている、ということ。]


When the particular concretion (of the interpretation )/in the sense of exact text interpretation// likes to appeal to what "is there",
精確なテキスト解釈に対する資質において、その解釈の特質的具体性が、何が「そこに存在している」のかを求める時、
      

what is <initially> "there" is nothing else than the self-evident, undisputed prejudice (of the interpreter),
 何が原始的に「そこに」あるのかは、自身による証左、あるいは解釈を行う者の議論の余地のない偏見以外の何物でもない。


 which is <necessarily> there in each point of departure (of the interpretation) as what is already "posited" with interpretation (as such, that is , pre-given with fore-having, fore-sight, fore-conception)"
 そしてそれは必然的に、事前に与えられた知識や予見、概念というような解釈として存在していること、つまり解釈の出発点として「存在」していることに他ならない。

―Heidegger "Being and Time"
ーハイデガー『存在と時間』

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以上です。精訳について解説、違うという正しい理解、意見、ideaがあればお願いします。また、気軽に提案してください。待ってます★彡

28日、改。
7.9、改
7.12、改

コメント

1番~5番を表示

2011年
07月02日
23:48
ノロイ

たらーっ(汗)...でもたっつんさんに密かに一目置いているのでやってみます。

難しい言葉が使えず安っぽくなっちゃいますが

あるものがどんなものか解釈する時にはこれまでに身につけたこと、かつて目にしたもの、そして今までに考えたり心に描いたことをどうしても元にする。

fore-having, fore-sightはfore-conceptionsに掛けないで3つの事柄にしました。
havingは所有しているもの=体験。I have been~. の経験を表すhaveみたいな感じで...。

とりあえず1文分提出します。

2011年
07月05日
02:54
たっつん

「havingは所有しているもの=体験」ですか、なるほど!
 他の訳文もシンプルでいいと思います。

 言葉がただ単に易しいのと、配慮がなされたシンプルさは意味が違います。具体的な言葉はわかりやすいのですが、本質的な意味を失いがちです。miscommunication等の「語弊」はここから生まれていると思います。
 対して抽象的な言葉は、抽象ゆえに本質的ですが、包括的な意味合いも含むので、あいまいさも出てきてしまいます。このバランスが難しいのですよね。

 シンプルな言葉と言うのは簡単ですが、的も外していない。そんなイメージです。優れた名言はみんなシンプルですが、的を突いています。
 
 「体験したこと」というのはつまり、実地による物事の理解っていうことなので、fore-havingは「体験」と訳すのがniceだと思います。
 「今まで体験した事、学んだ事が物事の解釈の前提にある」という意味になり、十分理解ができます。より具体的でreasonableな訳になりますね。

 「体験」があえて、experienceと記されなかったのは、このfore-という言葉で韻を踏もうと思ったからでしょう。「体験して、見て、考えたこと」という知覚、認識に関わる行為の認識順序について、fore-とすることで順番を強調できます。
 音としても、キレイな文になっていてキマっています。

as such, that is , pre-given with fore-having, fore-sight, fore-conceptionなので、fore-conceptionに掛けない方が正解ですね。

ー哲学っていうと難しい概念用語が並ぶようなイメージがありますけど、それは明治期に哲学を輸入した日本人の当てた日本語が難しいだけであって、本来の英語やドイツ語等はもっと簡単だと思います。
 実際、英語で書かれたアメリカ現地の大学1年生用の、いわゆる一般教育課程科目のような哲学のテキストとか読むと、そんなに難しくないです。むしろ日本の大学で買わされる、日本語で書かれた地味な「哲学概論」とかっていうテキストの方が難しいと思います。

 今までは、そういう難しい言葉で書かれたほうがアカデミックでかっこいいっていう雰囲気があったようですけど、これからの忙しい中、多分野がお互いに関連性を持つ時代は短時間で深い理解ができるような「わかりやすさ」のほうが大事だと思います。

 難しい概念をいかにわかりやすく伝えられるか? それが知識人の役割だと思います。
 だからそろそろ、ホントにもっと可能な限り、極力、簡単な日本語で訳されるべきだと思います。

2011年
07月12日
18:34

3: コメント返信ボタン

>>2 たっつんさん
如何せん、年寄りな者で難解なことは南海に捨てました。日本の坊主と哲学者は胡散臭い!哲学は学ぶこと?哲学は哲学するが好きな言葉です。
閑話休題、↓の動画、偶々見つけたもの。さすがはフランス、高校生から哲学するか。ご参考までに!

2011年
07月12日
21:56
たっつん

>inachan55さん

 とても興味深いvideoですね。こういうネタ好きです。「集中力は4時間も持たない」と言って出て行く女子高生の発言も、フランスっぽくて好きです。そういうのを平然と言える社会が羨ましいです!

 でも私がこのテストで興味深いのは、基本的ですが「記述式だろう」という事です。

 日本の高校にも、倫理があり、その中で哲学者の主張を学びますが、その試験である中間、期末、センターは穴埋め選択問題です。ここに日本と世界の差があると思います。

 アメリカの高校も記述式で多くの科目のスコアが決まり、その「質」とSATのスコアで大学が決まると聞いています。しかし、記述式であることの困難は、採点者に正当な採点能力があることを前提にしている点です。つまり、各教師の裁量に対する自由度、あるいは責任が大きいのです。

 日本はそういう意味では、教師を一切信用していません。だから、画一的な穴埋め問題や選択問題が多くなります。東大が入試を、全科目全問題を記述式にするのは、こういったことを考えた上での判断なんだと思います。

 このVでもテーマになっていますが、知識(=言葉)が先か、思考が先か、というのは言葉と思考が同居できないだろう概念であることを示しているようですね。
 日本の教育は中国の科挙試験の伝統文化を受け継いでか、知識偏重教育で学ぶ事の意義を失っています。知識は繋がりを持たないと、機能しません。断片化されたままです。
 それを全体最適化するのは思考で、その思考の方法を、高校生に理解してもらう必要があると思います。

2011年
07月20日
20:32
たっつん

>難解なことは南海に捨てました。

 思うに、これこそ究極の哲学だと思います。思考(=至高)の極みだと。

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